第一章 漠野の城(十二)
目をさますと全身にびっしょりと汗をかいていた。
静かだった。
耳にとどくのは吹きすさぶ風の音だけ。甲高い鐘の音も、廊下を走る兵の足音も、城壁に群がる敵兵の喚声も、なにひとつ聞こえない。
春明は己の右腕にそっと触れた。そこにはたしかに自分の手が、ちゃんと五本の指がそろった右手があった。
夢だったのだ。
安堵の息を吐き、身を起こす。頭が痛い。喉がからからに渇いている。
ひどい夢だった。夢のくせに、目に映る光景は鮮明で生々しかった。まぶたを閉じれば、まだあの血なまぐさい戦場のただなかに立っているような気さえする。
なにより、右腕を斬りおとされたときの、あの痛みと喪失感。あれはとても夢の中のこととは思えなかった。闇の中、傷口から際限なくあふれ出るどす黒い滝の奥に、白いものが見えた。あれは多分、自分の骨だ。
「……っ」
こみあげてきた吐き気を、春明は口をおさえてやりすごす。
部屋の外から叫び声のようなものが聞こえてきたのはそのときだった。
ぎくりとして耳をすますも、夜更けの城内はしんと静まりかえっている。風の音と聞き違えたかと気をゆるめたとき、再び哀れっぽい声が耳を打った。
まちがいない。ひとの声だ。
春明はしばらく迷った末、そろそろと寝台から降りた。震える手で灯をともした燭台を握りしめ、とっぷりとした闇に包まれた廊下に足を踏みだす。
やめておけ、と頭の中ではさかんに警鐘が鳴っていた。いますぐ部屋に引きかえし、夜が明けるまでおとなしくしていろと。さかんに訴えるその声を、春明はむりやり押さえつけた。
恐ろしくないわけではなかった。その証拠に、先ほどからまるで歯の根が合っていない。だが、なにも聞かなかったことにして寝床にもぐりこんだとしても、そのまま眠れる気がしなかった。震えている自分のもとへ、誰かが足をしのばせてやってきて布団をはぎとるのではないか。そんな想像が頭に浮かんでしまったのだ。
ふくらみ続ける恐怖と同衾するより、思いきって確かめにいったほうがまだましだ。
壁に手をあてながら暗い廊下を歩いていると、前方からひたひたと足音が聞こえてきた。
誰かが走ってくる。
春明は、もはやその場から一歩も動けなかった。手にした燭台を命綱のように握りしめ、近づいてくる誰かを待ちうける。
「うわあああああ!!」
叫び声が自分のものなのか、それとも相手のものなのかわからなかった。もしかしたら両方だったのかもしれない。
どん、と体に衝撃が走り、そのまま仰向けに倒れた。燭台が音をたてて廊下に転がり、あたりをぼんやりと照らしだす。その灯のおかげで、春明は自分にのしかかっている男の顔を確認することができた。
「あんた……」
それは昼間に荒野で出会った脱走兵だった。げっそりとこけた頬は幽鬼のごとく青白く、こぼれんばかりに大きく見開いた目は真っ赤に血走っている。
「なにやって……っ!」
男の両手が春明の首にからみつき、強い力で締めあげてきた。必死にふりはらおうとするも、枯木のようなその腕はびくとも動かない。
(冗談じゃ、ない……)
喉がひゅうひゅうと鳴る。頭が痛み、視界にちらちらと光が舞った。
このまま死ぬのだろうか。春明の胸に冷え冷えとした絶望が広がった。こんな、わけのわからないところで。気の狂った男の手にかかって。
意識が遠のく。手放してはいけないと、頭の片隅でもうひとりの自分が叫んでいる。ここであきらめたら本当にこのまま――
がっ、と鈍い音がして呼吸が急に楽になった。
春明は床に手をついて激しく咳きこんだ。目の前に、先ほどまで春明の喉を締め上げていた男が倒れている。まさか自分がやったのかとぞっとしたとき、頭上から冷ややかな声が降ってきた。
「殺してはいない」
はっとして顔をあげると、そこには長身の青年が立っていた。右手に燭台を持ち、左手に鞘に包まれたままの剣を握っている。
ゆらめく灯をはじいて、一瞬その両眼が金色に光ったように見えた。まるで夜の闇にひそむ危険な獣のように。
「おまえ、たしか城主の供人だな。こんなところでなにをしている」
青年の手が春明にのびる。その手がひどく恐ろしいものに思えて、春明はとっさに身を引いた。
(あれ……)
ぐらりと頭がゆれた。重い頭にひっぱられるように体がかしぐ。
「おい!」
「――春明!」
急激に遠のく意識の中、複数の足音とともになつかしい声が聞こえたような気がした。
そこで春明の意識はふっつりと途絶えた。
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