第二章 悪夢の城

第二章 悪夢の城(一)

 どこからか、笛の音が聞こえる。


 音階の練習でもしているのだろうか。ときに高く、ときに低く、のびやかに響くその音色は、曲の体はなしていないが耳に心地よい。


 春明しゅんめいは寝台に横たわったまま、ぼんやりと天井を眺めていた。室内をただよう埃が、窓のすき間から射し込む陽の光を受けてちらちらと輝いている。


 久しぶりにぐっすり眠った気がする。春明はうんと大きく伸びをした。と、指先がなにか固いものにふれた。


 あ、と思う間もなく、かしゃんとはかない音をたてて、枕もとの小卓においてあった杯が床に落ちた。


「あーあ……」


 やってしまったと、くだけた杯のかけらをつまみあげる。陽にかすと緑色の光を放つこの杯は、近隣の山から採れる玉を加工してつくったものだそうだ。杯の底にわずかに残っていた葡萄の酒が、床に点々と深紅色の滴を散らしている。


 玉杯で酒をあおっていたのは春明ではない。あるじ子怜しりょうだ。


 このままではとても眠れないと涙ながらに訴えた春明に、ならば眠るまで自分が側についていようと、子怜は申し出てくれのだった。誰かがそばにいた方が安心できるだろうと。そこまではよかったのだが、ただ座っているのも退屈だからと、どこかから酒を調達してきたのだ、あのひとは。


 病人の枕もとで酒盛りですか、と呆れる春明をよそに、子怜は涼しい顔で杯をかたむけていた。まあ、その適当すぎる看病人を見ているうちに、なんとなくうとうとしてしまい、結局しっかり眠ってしまったわけなのだが。


 ひろいあつめた杯のかけらを小卓の上におき、春明は寝台から降りて窓に歩みよった。雲の上でも歩いているかのように足もとがふわふわするのは、この三日ろくに食べていなかったせいだろう。


 建てつけの悪い窓を苦労して開けると、ざっと強い風が吹きこんできた。あいかわらず砂混じりなのには閉口するが、数日ぶりの外気は頰にこころよい。


 沙州関さしゅうかんにたどりついた最初の晩、錯乱した兵に襲われ、城輔じょうほさい奎厦けいかに助けられたところで気を失った春明は、そのまま高熱を発して寝こんでしまった。


 熱にうなされる春明を介抱してくれたのは、沙州関の居候を自認するよう阮之げんしだった。医術の心得もあるという阮之は、なにくれと春明の世話をやいてくれただけでなく、薬湯まで調合して飲ませてくれた。


 薬の効能か、それとも深く眠れたことがよかったのか、どうやら熱は引いたようである。手足にだるさは残っているが、頭はすっきりと冴えている。


 笛の音が、高い空に響く。


 春明はしばらくその音色に耳をかたむけていたが、やがて窓辺を離れて部屋を出た。

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