第一章 漠野の城(十一)

 その晩、春明しゅんめいは鐘の音で目覚めた。


 カンカンカン! と、けたたましく打ち鳴らされる鐘の音はいっこうに止む気配もない。何事かと飛び起きたとたん、ぐらりと体がかしいた。


「……なんだ、これ」


 ぐわんぐわんと頭がゆれ、側頭部がずきずき痛む。春明は必死で眠りにつくまでの記憶をたぐりよせた。


 沙州関さしゅうかんだ。ここは。


 夕暮れどきにたどりついた廃城で、よう阮之げんしと名のる食客と、城輔じょうほさい奎厦けいかに出会った。城輔は挨拶をすませるとすぐに退出してしまい、その後はもっぱら阮之がふたりの世話を焼いてくれた。


 夕食は別室で子怜と――これまた子怜の「ひとりで食べても美味しくないし」という一言により――阮之も交えて三人で食べた。肉汁したたる羊肉の串焼きや、葱を練りこんだ焼餅などがふんだんに用意され、春明は久しぶりの豪勢な食事を心ゆくまで楽しんだのだが――


(そこでやめておけばよかったんだ)


 痛む頭をかかえて、春明は後悔のうめきをもらす。


 子怜が手にしていた酒盃の中身に興味をおぼえ、一杯そそいでもらったのが間違いだった。かすかに酸っぱい香りのする白濁した酒は初めて目にするものだったが、子怜がまるで水でも飲むようにすいすい干していたことから、そう強くはあるまいとひと息にあおって――そこから先の記憶がない。


 おおかた強い酒に呑まれて倒れたところを、誰かに部屋まで運んでもらったのだろう。自己嫌悪のあまり再び寝床にもぐりこみたくなったが、甲高い鐘の音が鳴り響くなかではそうもいかない。


 泥のような身体をひきずって戸口ににじりより、そっと扉を開くなり、


「え……」


 春明はその場に棒立ちになった。


 武装した兵が、春明の目の前を走り過ぎていった。兵の列はとぎれることなく続き、壁に掛かった燈篭とうろうからもれる灯が床と壁に長い影を這わせた。


「あの!」


 春明はとっさに兵の群れに手をのばした。


「何があったんですか」


 腕をつかまれた兵はうつろな目を春明に向け、ぼそりと告げた。


「……敵襲だ」

「敵って……」


 呆然とする春明の手をふりはらい、兵は仲間の列に戻っていった。


(なんだ、これ)


 敵襲とは、いや、そもそも敵とはいったい誰のことだ。りょうせいの乱が終結して早三年。敵と呼べるような勢力など残ってはいないはず。


(もしかして、梁の残党とか?)


 辺境で抵抗を続けている梁の遺臣がいるらしいと聞いたことはある。彼らが沙州関に目をつけ、よりによって今晩夜襲をかけてきたというのだろうか。あるいは、大規模な盗賊集団の襲撃か。


「……ああっ、もう!」


 ぐずぐず考えていても仕方がない。春明はひとつ頭をふると、走り去った兵たちの後を追った。


 暗い廊下を駆けぬけ、いくつか角を曲がった先の突き当たり、狭く急な階段を登りきると、ざっと強い風が吹きつけた。


 城壁の上に出たのだと気づき、春明は空を仰ぐ。漆黒の夜空には月も星も見あたらなかった。今宵は新月だったろうかと思いつつ視線を下に転じた春明は、そこで目に飛びこんできた光景に愕然とした。


 沙州関の城壁に、黒い波がおしよせている。


 うねる大海の波間にまたたく無数の小さな光。それが松明の灯だと気づいたとき、耳もとで風が鳴った。次いで、ぎゃっと短い悲鳴が。


 春明がふりむいた先で、ひとりの兵の身体がかしいだ。酔っぱらいのように左右にふらつくその身を支えようと、とっさに伸ばした手は空をつかんだ。どうと重い地響きとともに兵が倒れる。同時に、ざっと温かく生臭い飛沫が手と頬を濡らした。


「は……」


 嘘だろうと、そう言いたかったが、かわいた唇からもれたのは、かすれた吐息だけだった。


 春明はのろのろと己の手を目の前にかざした。夜目にもそれとわかる、赤黒い液体が指の間を伝う。その指のすき間から、黒い影が飛びだしてきた。


 地から湧いて出たのかと思うほど、相手の動きは静かで無駄がなかった。三日月のような刀を振りかざし、その兵は春明に躍りかかる。


「やめ……!」


 とっさに頭をかばってあげた右腕に、重い衝撃が走った。松明の火でも押しつけられたような、激しい熱さと痛みに息がつまる。


 視界がゆれ、足がもつれた。石畳の上に転がり、反射的に右手をつこうとしたところで、春明は初めて気がついた。


 自分の右手、その手首から先が消えていることに。


 春明は絶叫した。


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