第四章 翠乱の城(二)
やや黄ばんだ紙切れには、一人の兵の絵姿が描いてあった。ひと目で素人が描いたとわかる絵だが、はしばしの特徴をよくとらえてあるおかげで、
いかにも敏捷そうな、ひきしまった体躯。片手に湾曲した短い刀を持ち、もう片方の手に弓矢を持っている。まちがいなく、それは毎晩夢に出てくる
だが、春明の顔をしかめさせたのは、それが単に敵兵の絵姿だからという理由ではなかった。
墨で描かれた楼西兵の、その両眼だけが鮮やかな緑色に塗られていたのだ。
その絵姿が示す意図、というより悪意は明白だった。この城に、緑の眼の持ち主はたったひとりしかいない。
「返せ」
横から紙片をひったくられる。見あげれば、
「……それ、きみが描いたのか」
「ちがう」
刀児がふてくされたように目をそらす。
「これは
「洪?」
訊き返したが、すぐに春明は思いあたった。子怜を人質にして脱走を図った兵だ。
「ああ、あの気が狂った……」
「洪はそんなんじゃねえよ!」
その激しさに
「もういっぺん同じこと言ってみろ。おまえの口に砂をつめて、井戸にぶちこんでやるからな」
「わかった。悪かったよ」
「おまえなんて、あいつのことなにも知らないくせに。あいつはまともだ。まともだったんだ。おれよりずっと頭もよくて、読み書きだってできて、なのにそれを全然鼻にかけない、すごいやつで……」
威勢のいい声がだんだんと小さく、湿っぽくなる。
「だけどさ、あいつ、昔から気が弱くて……だからあんなことに……」
とうとう語尾に嗚咽が混じる。そうか、と春明はうなずいた。
「友達なんだ」
「同じ
刀児はうつむいて乱暴に顔をこすった。
「おれとあいつ、一緒に徴兵されたんだ。えらいとこに飛ばされちまったけど、おれがついててやれば大丈夫だって思ってたのに……なのに、あの夢のせいで、あいつどんどん元気がなくなってって、体もすっかり痩せちまってさ。しまいにあんなことしでかしちまって」
刀児はそこできっと顔をあげる。
「あいつ、本当はあんなことができるやつじゃないんだ。あいつがおかしくなっちまったのは、みんなこの城のせいなんだよ。あの
「ちょっと待った」
春明は手をあげて刀児の話をさえぎる。
「そこでどうして城輔のせいになるんだ? だいたい、その絵はなんだよ。それは
「あいつのせいだ」
ためらいなく刀児は言いきった。
「洪が言ったんだ。あいつが城を抜け出す日の朝のことだった。あいつ、すげえ青い顔でおれのとこに来てさ。おれ、その日は門衛の当番で南門のとこにいたんだけど、寒い日でもなかったのに、あいつ、歯の根も合わないくらい震えてて、それで、おれに助けてくれって言うんだよ。何度も何度も。どうしたって訊いても、まともに答えてくれなくてさ」
助けてくれ。
そうだ、荒野で初めてあの兵に会ったときも、彼は同じことを訴えていた。
助けてくれ。さもないと――
「殺されるって」
刀児が暗い声でつぶやいた。
「このままじゃ殺されるって。そう言ってあいつ、この絵をおれに押しつけてさ。そんでそのまま、ふらふらとどっかにいっちまった。あのときおれが止めてりゃよかったんだ。もっとちゃんと話を聞いてやれば、そしたら、あんなことにはならなかったんだ」
刀児はくやしそうに唇をかむ。
「この絵を見て、あいつの言いたいことはすぐにわかった」
緑の眼を持つ、楼西の兵。自分を殺しにくる敵は、この姿をしているのだと。
「つまり、奎厦さまが夢の中で楼西の兵として出てきて、それで洪を殺したと?」
「そうだ」
刀児は真剣な顔でうなずいた。
「洪だけじゃない。おれ、皆に聞いてみたんだ。夢の中のこと、どこまで覚えているかって。夢に出てきた敵兵の顔はどんなだったかって。そしたら、みんな口をそろえて同じことを言うんだ。顔は覚えていない。だけど、自分を殺したやつは、獣みたいな眼をしていたって。この絵、そのまんまの……」
暗闇で光る、緑の瞳。夜の闇にまぎれて獲物にしのびよる狼のような眼を見たと。
「もちろん、おれも見た」
おまえはどうだと、刀児は春明にたずねた。
「おまえも見たんじゃないか?」
「わたしは……」
にわかに頭の奥がうずき、春明は額に手をあてた。
夢ならば毎晩見る。けたたましい鐘の音にはじまる、夜襲の夢を。
「敵のなかに、いなかったか? 緑の眼をしたやつが」
影絵のような敵兵の群。その中にひとりだけ、他とちがう男がいなかったろうか。松明の炎をはじいて金色に光る眼の――
(金?)
いや、ちがう。あれは、あの色は――
「あいつだよ」
はっとして顔をあげると、
「あいつが親玉だ。はじめから、あいつはおかしいと思っていたんだ。あの髪に眼……」
刀児はひどく真剣な、そしてどこか暗さを帯びた声ではっきりと告げた。
「あいつは、おれたちの敵だ」
その台詞は前にも聞いたことがある。
「そんな……」
馬鹿なと笑いとばしたかった。さもなくば、いいかげんなことを言うなと刀児をしかりつけたかった。だが、春明にはそのどちらもできなかった。
頭の奥で、ちろちろと光がゆれる。最初は金色だと思っていたその光は、いつの間にか色を変える。妖しい緑に。
呆然と座りこんでいる春明に、刀児はあわれむような
「遅くなりまして」
おだやかな声とともに現れたのは
「怪我人がいるとか……きみのことですか」
「いいえ」
刀児はこわばった声で否定し、阮之の横をすりぬけて部屋を出て行った。
「春明どの?」
ぼんやりとしていた春明は、はっと我に返る。
「どうしました。もしかして具合が悪いのは春明どのの方ですか」
「いえ……」
春明はゆるゆると首をふる。
「なんでもありません。刀児……いま出て行った彼が、頭を打ったとかで運びこまれてきたんですけど、もう大丈夫みたいで」
強いて笑顔をつくりながらも、春明は胸に得体の知れないものが広がっていくのを感じていた。黒い
その靄が、はっきりとした形を持って再び春明の目の前に現われたのは、それから二日後のことだった。
脱走に失敗し、捕らえられていた洪という名の兵が死んだのだ。
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