第四章 翠乱の城(九)
「
「まえに、地下の書庫をのぞいたことがあったよね。あのとき、
地下の文書庫で、奎厦が卓の上にひろげていた紙の束。あのとき自分はなにを思っただろう。いやに急いで片付けるのだなと、ほんのすこし不審な気持ちを抱いたのではなかったか。
「……わかりません」
「そう。まあいいさ。あの書庫もこれから調べればいいことだ。だけど、ひどくやられたもんだね。ざっと見たところ、再建費の半分がたは抜かれている。残った銀だけでも
「ご城主、まさか、あの武器の運び賃は……」
「ああ。ここに保管しておくのも危ないから、
「待ってください」
春明はとっさに声をあげた。
「奎厦さまが再建費を横領したと? そんなはずはありません。奎厦さまは誰よりもこの城の再建を願っていたはず……」
「逆だよ」
やめてくれ、と春明は思った。そんな目で見ないでほしい。そんな、あわれむような目で。
「この城の再建をことごとく阻んでいたのは、奎厦だった。薬で悪夢をつくりだし、城主を追い払い、その隙に再建費を着服した。事故が起これば、
「再建がとりやめとなれば、奎厦は何食わぬ顔でこの城を去ったことだろう。在任中にたくわえた隠し財産を手にしてね」
「――ちがいます」
その声が、まるで自分のものではないように聞こえた。
「それはちがいます。だってそんな……では、皆が夢で見た緑の瞳の兵というのは? 奎厦さまがこの夢を見せていたのであれば、そんな姿の敵兵を登場させるはずがありません。わざわざ自分に疑いを向けるようなことを……」
「最初にそう言い出したのは、
二度脱走を試み、最後はおそらく夢に殺された、哀れな男。
「彼は字が読めたとか。それだけでなく、簡単な計算もできたそうだ」
兵に徴される民のなかで、字が読める者は貴重だ。ましてや数字を操ることができる者など数百人に一人いるかいないか。
「彼は、たしかこう言っていたね。奎厦こそが真の反逆者だと」
――おれは知っているぞ。
狂気にぎらついた洪の目。追いつめられた末の妄言だとばかり思っていたのに。あれは城の金を横領していた
「彼は知っていた。城輔が裏でなにをしていたかを。偶然見聞きしてしまったことなのか、それとも奎厦の手伝いをさせられていたのか……おそらく後者だろうが、いずれにせよ、あの絵は、彼の精一杯の告発だったんだろうね」
そしてその絵姿は仲間の目にふれ、夢に投影される。緑の瞳をもつ楼西の兵の姿をとって。
「夢なんて、もともとひどく曖昧なものだ。目が覚めたそのときから、記憶は薄れていく」
記憶が
「洪の死因も調べなおす必要があるな。十中八九、口封じに奎厦が始末したんだろうけど」
「……うそだ」
春明は力なく首をふる。
「奎厦さまがそんなことをなさるはずはありません。だって奎厦さまは誰よりもこの城のことを気にかけて……」
「好きだった? そうだろうね。ここはかつての楼西の都で、あの男はその民、王の
――おれの城を。
春明の脳裏に、いつか奎厦が口にした言葉がよみがえる。それを否定した子怜へ向けられた強すぎる眼差しとともに。
「奪い返したかった。この城を不当に占拠する者たちから。とりもどして、誰の手にもわたしたくなかった……いや」
子怜は首をふる。
「たんに欲得ずくのことだったかもしれない。名家の当主の甥でありながら、なんの後ろ盾も財産もなく、己の才覚でだけを頼りに生きてきた若者のもとへ、ある日突然、城輔という地位が転がりこんできた。これを利用しない手はない。そう考えたとしても不思議はない」
春明は耳をふさぎたかった。それはちがうと、もういちど叫びたかった。だが、頭のなかにいるもうひとりの自分は、すっかり納得してしまっている。子怜の言うことが正しいと。すべての辻褄が合うではないかと。
「楊城輔」
「……は」
「前城輔の護送の手はずを整えてくれ」
「護送とは、どちらへ」
「
阮之は無言でうつむいていたが、やがて静かに顔をあげた。
「承知いたしました」
阮之は外で待たせていた兵を招きいれ、部屋の片づけをはじめた。阮之の指示は的確で、それにしたがう兵の顔にも迷いはなかった。
春明の目の前で、流れるように物事が動いていく。そこに口をはさむ余地は、まるでなかった。
奎厦について、春明はもっと言うべきことがあるような気がしたが、なにを語ればいいのかわからなかった。訴えるべきことなど、もうなにひとつ残っていない気がした。
胸が苦しいのはよどんだ空気のせいだろうか。たまらず春明は窓に駆けよった。きしむ窓を開け放つと、白い朝の光がさっと部屋に差しこんだ。
「夜明けだ」
いつの間にか後ろに立っていた子怜がつぶやいた。
白んだ空に、引きしぼった弓のような弦月がかすんでいた。
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