第四章 翠乱の城(九)

春明しゅんめい


 子怜しりょうに名を呼ばれて春明はのろのろと顔をあげた。


「まえに、地下の書庫をのぞいたことがあったよね。あのとき、奎厦けいかはなにを熱心に書いていた?」


 地下の文書庫で、奎厦が卓の上にひろげていた紙の束。あのとき自分はなにを思っただろう。いやに急いで片付けるのだなと、ほんのすこし不審な気持ちを抱いたのではなかったか。


「……わかりません」

「そう。まあいいさ。あの書庫もこれから調べればいいことだ。だけど、ひどくやられたもんだね。ざっと見たところ、再建費の半分がたは抜かれている。残った銀だけでも紅娘こうじょうに運んでもらっておいてよかった」


 阮之げんしがあっと口に手を当てた。


「ご城主、まさか、あの武器の運び賃は……」

「ああ。ここに保管しておくのも危ないから、州令府しゅうれいふであずかってもらっている。ついでに羅一家には、この城の出入りの商家の裏も調べるよう頼んでいるよ。資材の調達や銀の運搬やらで、かならず奎厦に加担した商人がいるはずだからね。こういう探索ごとは、役人にまかせるより同業者を頼ったほうが早い」

「待ってください」


 春明はとっさに声をあげた。


「奎厦さまが再建費を横領したと? そんなはずはありません。奎厦さまは誰よりもこの城の再建を願っていたはず……」

「逆だよ」


 やめてくれ、と春明は思った。そんな目で見ないでほしい。そんな、あわれむような目で。


「この城の再建をことごとく阻んでいたのは、奎厦だった。薬で悪夢をつくりだし、城主を追い払い、その隙に再建費を着服した。事故が起これば、楼西ろうせいの亡霊のせいにすればいい。ひとつ事故が起こるたび、兵はますます楼西の呪いを信じこむ。そうやって、奎厦は待っていた。せいが、沙州関から手を引くのを」


 沙州関さしゅうかんの再建などとうてい望めない、呪いの城に手をつけたのがそもそものまちがいだったのだと、京師けいしの高官たちが判断するのを。


「再建がとりやめとなれば、奎厦は何食わぬ顔でこの城を去ったことだろう。在任中にたくわえた隠し財産を手にしてね」

「――ちがいます」


 その声が、まるで自分のものではないように聞こえた。


「それはちがいます。だってそんな……では、皆が夢で見た緑の瞳の兵というのは? 奎厦さまがこの夢を見せていたのであれば、そんな姿の敵兵を登場させるはずがありません。わざわざ自分に疑いを向けるようなことを……」

「最初にそう言い出したのは、こうだったそうだね」


 二度脱走を試み、最後はおそらく夢に殺された、哀れな男。


「彼は字が読めたとか。それだけでなく、簡単な計算もできたそうだ」


 兵に徴される民のなかで、字が読める者は貴重だ。ましてや数字を操ることができる者など数百人に一人いるかいないか。


「彼は、たしかこう言っていたね。奎厦こそが真の反逆者だと」


 ――おれは知っているぞ。


 狂気にぎらついた洪の目。追いつめられた末の妄言だとばかり思っていたのに。あれは城の金を横領していた城輔じょうほへの、正当な糾弾だったとでもいうのか。


「彼は知っていた。城輔が裏でなにをしていたかを。偶然見聞きしてしまったことなのか、それとも奎厦の手伝いをさせられていたのか……おそらく後者だろうが、いずれにせよ、あの絵は、彼の精一杯の告発だったんだろうね」


 そしてその絵姿は仲間の目にふれ、夢に投影される。緑の瞳をもつ楼西の兵の姿をとって。


「夢なんて、もともとひどく曖昧なものだ。目が覚めたそのときから、記憶は薄れていく」


 記憶がされて、のこるのは不安と恐怖。そこへ投じられた一石に、皆がすがりつく。これが真実だと。ひとたび定着した筋書きは、夢をあやつる奎厦ですら変えられなかったか。


「洪の死因も調べなおす必要があるな。十中八九、口封じに奎厦が始末したんだろうけど」

「……うそだ」

 

 春明は力なく首をふる。


「奎厦さまがそんなことをなさるはずはありません。だって奎厦さまは誰よりもこの城のことを気にかけて……」

「好きだった? そうだろうね。ここはかつての楼西の都で、あの男はその民、王のすえ。とりもどしたかったんだろうよ。彼の城を」


 ――おれの城を。


 春明の脳裏に、いつか奎厦が口にした言葉がよみがえる。それを否定した子怜へ向けられた強すぎる眼差しとともに。


「奪い返したかった。この城を不当に占拠する者たちから。とりもどして、誰の手にもわたしたくなかった……いや」


 子怜は首をふる。


「たんに欲得ずくのことだったかもしれない。名家の当主の甥でありながら、なんの後ろ盾も財産もなく、己の才覚でだけを頼りに生きてきた若者のもとへ、ある日突然、城輔という地位が転がりこんできた。これを利用しない手はない。そう考えたとしても不思議はない」


 春明は耳をふさぎたかった。それはちがうと、もういちど叫びたかった。だが、頭のなかにいるもうひとりの自分は、すっかり納得してしまっている。子怜の言うことが正しいと。すべての辻褄が合うではないかと。


「楊城輔」

「……は」

城輔の護送の手はずを整えてくれ」

「護送とは、どちらへ」

宜京ぎきょうへ。彼と証拠の品を州令府に送り、州令どのの裁可をあおぐことにする。早急に準備を」


 阮之は無言でうつむいていたが、やがて静かに顔をあげた。


「承知いたしました」


 阮之は外で待たせていた兵を招きいれ、部屋の片づけをはじめた。阮之の指示は的確で、それにしたがう兵の顔にも迷いはなかった。


 春明の目の前で、流れるように物事が動いていく。そこに口をはさむ余地は、まるでなかった。


 奎厦について、春明はもっと言うべきことがあるような気がしたが、なにを語ればいいのかわからなかった。訴えるべきことなど、もうなにひとつ残っていない気がした。


 胸が苦しいのはよどんだ空気のせいだろうか。たまらず春明は窓に駆けよった。きしむ窓を開け放つと、白い朝の光がさっと部屋に差しこんだ。


「夜明けだ」


 いつの間にか後ろに立っていた子怜がつぶやいた。


 白んだ空に、引きしぼった弓のような弦月がかすんでいた。

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