第四章 翠乱の城(三)

「食事を運んだ者によると、いつもは一日中寝台の上に座りこんでいるところ、今朝に限ってうつぶせに寝ていたのだそうです。声をかけても反応がなかったので、体に手をかけてみたところ……」


 すでに冷たく、固くなっていたのだと、阮之げんしは駆けつけた子怜しりょう春明しゅんめいに説明した。


 遺体のそばでは、奎厦けいかと数名の兵が黙然とたたずんでいた。


「死因は?」


 子怜が問うと、阮之は力なく首を横にふる。


「わかりません。ひととおり遺体をあらためてみましたが、外傷は見あたりませんでした」


 子怜は遺体のそばにしゃがみこみ、顔を覆っていた布をはずした。子怜の背中ごしにこうの顔を見た春明は、思わず息をのんだ。


 洪の死に顔は、安らかとはほど遠かった。血走った両眼はかっと見開かれ、ひどい苦痛にさらされていたかのように顔全体がゆがんでいる。何かを叫ぶように大きく開かれた口もとには、よだれが伝った跡が白くついていた。


 子怜は遺骸に鼻を近づけ、すぐに顔をしかめて身を引いた。


「体の硬直の具合からして、この者が息をひきとったのは真夜中かと」

「てことは、また例の?」

「……緑の眼」


 ごく低い、ひそめた声だったが、しんと静まりかえった室内で、それは雷鳴のようにとどろいた。その声に、真っ先に反応したのは奎厦だった。肩をいからせ、声の主をにらみつける。鋭い視線の先で、その少年兵は昂然と顔をあげて奎厦を見つめかえしていた。


「洪は、殺されたんだ」

「……ちょっと」


 春明はたまらずその少年兵――刀児とうじのもとへ駆けよった。


「なにを言いだすんだ。いまはそんな場合じゃ……」

「どけよ」


 刀児は春明をつきとばすと、懐から黄ばんだ紙片を取り出し、武器のように奎厦につきつけた。


「あんたのせいだ」


 ゆっくりと、一語一語区切るように刀児は言う。


「あんたが、洪を殺した」

「やめ……」

「皆も見ただろう!」


 春明の制止の声を、刀児の告発が圧する。


「おまえらも見たんだよな! 夢の中で、緑の眼をしたやつに殺されたんだよな! そうだろう、なあ!」


 しばらく誰も声を発しなかった。重苦しい沈黙の中、ひとりの兵がそろりとまわりを見わたした。


「……おれ、あんまり覚えていないけど……見た気がする」


 やめろ、と春明は声にならない叫びをあげる。いまはやめてくれと。だが、ひとりの兵のつぶやきは、またたく間に周囲の兵たちに伝染する。


「……おれも」

「たしかか? おれは……」

「見た」

「本当かよ……」

「暗闇で光るんだ。緑の眼が……」

「……おれも、見た」


 ざわめきが、見えない環となって奎厦をとりかこむ。


「――そこまで」


 凛とした声が響き、同時に細い指がのびて刀児の手から紙片を奪いとった。


「検分は終わりだ」


 子怜は紙片をくしゃりと握りつぶし、袖の中に放りこむと、刀児に笑いかけた。華やかなその笑みに、刀児をはじめその場にいた兵たちは魂を抜かれたようにぼうっとする。


「城主として、きみたちに約束する。きみたちの仲間を死に追いやった原因は必ず明らかにしよう。だけど、まずは彼を弔ってやるのが先だろうね」


 おだやかにさとされて刀児の顔がくしゃりとゆがんだ。その目から涙が一気にあふれだし、刀児は恥じるようにうつむいて顔を乱暴にこする。


 阮之の指示で、洪の遺体は布でくるまれて運びだされた。仲間にうながされて部屋をあとにした刀児は、去り際に一瞬顔をあげ、奎厦をにらみつけたが、当の奎厦は蒼白な顔で床の一点を凝視しており、その視線に気づいた様子はなかった。


「――奎厦」


 室内に子怜と春明、それに奎厦と阮之の四人だけになったところで、子怜はおもむろに口をひらいた。


「きみを解任する」


 奎厦は殴られたように顔をあげた。


「あくまで仮の処遇だ。正式な処分は追って下す。それまでは自室で謹慎しているように」

「……理由を」


 奎厦の口から、低い声がしぼりだされる。


「理由をきかせろ。おれがなにをした」

「それは、きみがいちばんよく知ってるんじゃないかい」

「……おれを疑っているのか」


 どうかな、と子怜はそっけなくつぶやく。


「とにかく、人死ひとじにはこれで二件目だ。さすがにもう偶然では片付けられない。くわしく調べる必要があるだろうけど、それをきみに任せるわけにはいかない。きみがこちら側にいては、兵の協力が得られそうにないからね。きみは皆を怯えさせている」

「そんなことは……」

「自覚ないんだ? ここに鏡がないことが残念だね」

「奎厦どの!」


 阮之が悲鳴のような声をあげて奎厦の右腕をおさえた。


「おやめください、ご城主に向かってなんということを……」


 阮之に止められて初めて奎厦は気づいたようだった。自分の右手が剣の柄にかかっていることに。


「きみを解任する理由がひとつ増えた。阮之どのに礼を言うんだね。その剣、抜いていれば死罪だった」


 視線で人が殺せるならば、とっくに子怜は八つ裂きにされていただろう。そう思わせるほど、奎厦の眼光は激しい憎しみに満ちていた。


「いずれにせよ、いまのきみに城輔の任が務まるとは思えない。しばらく頭を冷やすといい」

「貴様……」

「聞こえなかったかい」


 思わず身がすくむような冷たい声で子怜は告げる。


「ぼくはきみに、謹慎しろと命じた。さっさと行くんだね。それとも、連行されたいかい」


 ほんの短い間、おそらくまばたき数回分だろう、奎厦の中でなにかが爆発して、押さえこまれた。


 奎厦は無言できびすをかえし、部屋を出ていった。

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