終章 月沙の都
終章 月沙の都(一)
その日は朝から強い日差しが照りつけ、春をとびこして一足先に夏がやってきたような暑さだった。
陽が西にかたむき、ようやく暑さも和らいだ頃、
やっぱり暑いと乾きが早いなあと、ほくほくしながらとりこんでいるところに、新任の
「精が出るな」
きびきびとした足どりの長身の若者の頭髪が、夕陽を浴びて金色に輝く。
「
おつとめご苦労さまです、と春明は頭をさげた。
「
「ああ。途中まで見送ってきた。おまえによろしくと言っておられたぞ」
「わたしなぞにお言葉をいただけるとは恐縮です」
「くれぐれもあの阿呆の世話を頼むと」
「……それ、どっちかというと奎厦さまのお役目じゃないですか」
五日前に再任されたばかりの城輔は、翡翠色の瞳に物騒な光をひらめかせた。
「そうだったな。城主はどこにいる」
「存じません……?」
語尾が上がってしまったのは誰にも責められないだろうと春明は自分で自分を慰める。奎厦は目を
「吐け」
「地下の書庫です」
春明は早々に白旗をあげた。そうか、と奎厦は
地下は、おもての熱気が嘘のようにひんやりとしていた。高所にもうけられた明かりとりの窓から、西日が金色の帯のように差しこんでいる。
奎厦につづいて書庫に足を踏みいれた春明は、部屋の真ん中で倒れている小柄な青年の姿を見てぎょっとした。まさか死んでいるのではと思ったのだが、すぐに杞憂だとわかった。青年の唇から安らかで規則正しい寝息がもれていたからだ。
「
二度、三度と呼びかけ、肩をゆすぶってみたが、子怜は目をさます気配もない。かさねた書物や束ねた紙やらを枕がわりにして、すやすやと、じつに気持ち良さそうに眠りこんでいる。
「起きてくださいよ」
頬をぺちぺちとたたくと、ようやく子怜はうすく目をあけた。ほわんとした視線が春明と、その後ろで怖い顔をしている奎厦との間を一往復する。
「……なに」
「決裁をいただきたい書類がありまして」
奎厦がとってつけたような丁重さで答えると、子怜は両手で頭をかかえて寝返りをうった。
「
「そうか、わかった」
奎厦は力強くうなずいた。
「春明、おれはいまからこいつの辞職願を書いてくる。おまえはそれに印を押せ」
「ちょっと子怜さま、いまの聞こえましたよね。早く起きないと、あなた本当に追い出されちゃいますよ」
まんざら冗談とも聞こえない奎厦の言葉に、春明はあせって子怜の肩をゆすぶるが、返ってくるのは気持ちよさそうな寝息ばかり。
「子怜さまってば……」
「どけ」
奎厦はやおら進みでると、子怜の足を蹴とばした。でっ、と変な声をあげて子怜が床をころがる。
「ちょっと、なにすんの……」
「それはこっちの台詞だ。あんたこそ何をしている」
「見りゃわかるでしょう。昼寝だよ。ここがいちばん涼しい……」
「いいご身分だな」
奎厦は顔をひきつらせた。
「面倒な後始末は全部おれに押しつけて、城主のあんたは優雅に昼寝か」
それもようやくひと段落し、捕虜をつれた慶州軍が沙州関を
「仕方ないじゃない。昨夜は
子怜はのっそりと身を起こしてあくびをもらした。呼気がかすかに酒臭い。
「……なんだよ」
首筋をぽりぽりかきながら、子怜は不服そうに唇をとがらせて奎厦を見あげる。
「きみ、前に言ってたよね。余計なことはするなって。だからこうしておとなしくしているのに、なんで怒られなきゃならないのさ」
「あのときとは状況がちがう。おれひとりでは手がまわらん」
「手伝ってくれる人がいなくなっちゃったからねえ」
戦場につみかさなる遺体の中にもその姿はなく、捕虜を尋問しても誰ひとりその行方を知る者はいなかった。その報告を受けたとき、子怜は「そう」とだけつぶやいて、あとの捜索は慶州府に引き継ぐよう指示した。
「わかっているなら、あんたも働け」
「えーせっかくいい夢を見ていたのに」
「夢なんざ、もうこりごりだ」
「いい夢だったよ。昼間の夢だ。たぶん
え、と春明は瞬きをする。
「子怜さま、それって……」
まさかと思って訊ねてみれば、それはいつか春明が見た、昼間の都の光景そのままだった。
平和で、にぎやかで、おだやかな夢。
「不思議だねえ。そろって同じ夢を見るなんてさ。もしかして、まだ薬が残っているのかなあ」
「薬のせいじゃないだろう」
ぼそりと奎厦がつぶやき、子怜と春明はそろって奎厦の顔を見る。
「なんでそう思うのさ」
「べつに……」
奎厦は失言だったとばかりに顔をしかめた。
「いい。忘れてくれ」
そこで話を打ち切ろうとした奎厦だったが、しつこく子怜に追求されてようやく重い口を開いた。
「おれも、同じ夢を見た」
「いつ」
「この城に、はじめて来た日のことだ」
城輔代理の話をもちかけられたとき、奎厦はひとり馬を飛ばして沙州関にやってきたのだという。
「どうせ断れぬ話だとわかっていても、この目で城を見ずに応じることだけはしまいと決めていた。えらく遠かったな……」
三日三晩かけてようやくたどり着いたとき、夜空には満月が皓々と輝いていた。月明かりに照らされて、かつての王都はただ静かにそこにあった。風と砂の音だけが出迎えだった。
朽ちた都で一夜を明かし、明け方のまどろみの中で、その夢はやってきたという。
「昔聞かされた話が、そのまま夢に出てきた。にぎやかで、あざやかな夢だった」
そのときの情景をいとおしむように、奎厦は緑の眼を細めた。
「夢からさめたあとで、こう思った。楼西の亡霊とやらが本当にいるなら、やつらが訴えたかったのは、ただ――」
憎悪でも、復讐の念でもなく、彼らが本当に伝えたかったことは。
奎厦は言葉を探すようにしばし考えこむ。
「――忘れないでほしい、と」
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