第四章 翠乱の城(八)
「こちらです」
その場にいた兵たちを退出させてから、
家具がたおれた際にどこかから飛び出したのだろう。小さな革袋が床に落ちており、ひらいた口から黒い砂のようなものがこぼれていた。
「ひどい匂いだ。なんだい、これは」
「
そこでいったん口をつぐんだ後、阮之はひと息に言った。
「この煙を吸いこんだ者は、奇妙な幻覚を見るようになるとか」
「幻覚って……」
春明はとある可能性に思いあたり、はっとして口をつぐむ。
奇妙な幻覚。それはたとえば、夜な夜な敵兵が攻めてくるような。異国の兵が血に濡れた刀をふりかざし、己の首をかき斬るような。
「ねえ、阮之どの」
子怜は立ちあがって手についた黒い粉をはらう。
「その煙とやらは香炉を使わなくとも出せるものかな。そう、たとえば、手燭なんかを用いるとかさ」
「……はい」
「奎厦は、毎晩城内の見まわりをしていたそうだね」
いつか城壁上で阮之が語ってくれたことだ。城輔は毎晩城内を見まわり、うなされ方がひどい兵がいたら、無理にでも起こしてやっているのだと。
「香炉のかわりに手燭を用いて煙をくゆらせ、眠っている者の耳もとで夢の筋書きをささやいてやれば、あとは勝手にその者が悪夢をつむぐ。そんなことも可能かな? 阮之どの」
この部屋に子怜を案内したときから、いや、薬の革袋を見つけた瞬間から、そう問われることはわかっていただろうに、阮之が答えるまでひどく時間がかかった。
「……可能です」
力なくつぶやいた阮之の顔は、ひどい苦痛をこらえているかのようにゆがんでいた。
「ですが、ご城主、わたしにはわかりません。奎厦どのが、なぜそのようなことをなさったのか」
「ひとが悪事を企む理由は、つきつめればだいたいふたつ。恨みか、金か。もしくはその両方か……」
子怜はぐるりと部屋をみわたした。その眼が、床にたおれた書棚にとまる。子怜はおもむろに書棚に歩みよると、並べてあった書物を一冊ぬきとり、それを床にほうりなげた。
「子怜さま!?」
「ご城主、なにを……」
戸惑うふたりをよそに、子怜はつぎつぎと書物を手にしては投げ捨てる。すっかり書棚を空にすると、今度は棚の内側に指を走らせた。しばらくごそごそやっているうちに、かちり、と、かすかに金具が外れるような音がした。
「隠し底とは念のいったことで……」
子怜は唇の端をつりあげて小さくつぶやき、さらに書棚の奥をさぐる。ほどなく、子怜は書棚から紙の束をとりだした。数十枚にもおよぶ紙の束には、なにやらびっしりと文字と数字が書きつけてある。
「ご城主、それは……」
ざっと目をとおし終えると、子怜は紙を阮之にわたした。
「裏帳簿、ていうのかな」
青ざめた顔で紙の束を受けとった阮之に、「おぼえているかい」と子怜は訊ねる。
「城壁の補修中に事故があったね」
「もちろんです。壁が崩れて……」
「なんで崩れたと思う? 簡単だ。材料が悪かったのさ」
阮之ははっと目を見ひらいた。子怜は淡々とつづける。
「この城の壁は、黄土を焼き固めた煉瓦を積んで造っているね。あのとき、土台となっていた煉瓦が上部の重みに耐えきれずに崩れた。普通だったらそんなことは起きない。火を入れた煉瓦は頑丈だ。たとえば、このくらいの高さから……」
子怜は自分の胸のあたりで手を水平にかざす。
「落としたとしても、そう簡単には割れない。割れたとしても、せいぜい端が欠けるくらいだ。なのに、あの壁に用いられていた煉瓦は、落としたら簡単に割れた。それも粉々に。材料の土が悪いのか、火の入れ方がまずかったのか……」
春明は事故の日のことを思い出した。あの日、奎厦と兵たちとの間に険悪な空気が流れたとき、子怜が煉瓦を落とした。それは、皆の気をそらすためだとばかり思っていたのに――
「いずれにせよ、粗悪品だ。まともな値もつかないような、ね。あれを仕入れたのは、誰だい?」
答えは、聞かずともわかっていた。
「……そんなはずはありません」
信じたくない。阮之の顔にはありありとそう書いてあった。
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