第四章 翠乱の城(八)

 奎厦けいかの居室はひどい有様だった。ほとんどの家具はひきたおされ、そこかしこに血が飛び散っている。この中に、あの負けん気の強い少年の血もまざっているのかと思うと、春明しゅんめいの胸は痛んだ。


「こちらです」

 

 その場にいた兵たちを退出させてから、阮之げんしは固い表情で床の一点を指差した。


 家具がたおれた際にどこかから飛び出したのだろう。小さな革袋が床に落ちており、ひらいた口から黒い砂のようなものがこぼれていた。


 子怜しりょうは慎重な手つきで砂をつまみ、鼻に近づけて顔をしかめた。


「ひどい匂いだ。なんだい、これは」

黒霊燻こくれいくんといいまして、鎮痛剤の一種です。香炉で焚いた煙を吸いこめば頭が朦朧もうろうとしていっとき痛みを忘れることができます。たいそう高価な薬で、そのぶん効能は抜群ですが、厄介な副作用がひとつ……」


 そこでいったん口をつぐんだ後、阮之はひと息に言った。


「この煙を吸いこんだ者は、奇妙な幻覚を見るようになるとか」

「幻覚って……」


 春明はとある可能性に思いあたり、はっとして口をつぐむ。


 奇妙な幻覚。それはたとえば、夜な夜な敵兵が攻めてくるような。異国の兵が血に濡れた刀をふりかざし、己の首をかき斬るような。


「ねえ、阮之どの」


 子怜は立ちあがって手についた黒い粉をはらう。


「その煙とやらは香炉を使わなくとも出せるものかな。そう、たとえば、手燭なんかを用いるとかさ」

「……はい」

「奎厦は、毎晩城内の見まわりをしていたそうだね」


 いつか城壁上で阮之が語ってくれたことだ。城輔は毎晩城内を見まわり、うなされ方がひどい兵がいたら、無理にでも起こしてやっているのだと。


「香炉のかわりに手燭を用いて煙をくゆらせ、眠っている者の耳もとで夢の筋書きをささやいてやれば、あとは勝手にその者が悪夢をつむぐ。そんなことも可能かな? 阮之どの」


 この部屋に子怜を案内したときから、いや、薬の革袋を見つけた瞬間から、そう問われることはわかっていただろうに、阮之が答えるまでひどく時間がかかった。


「……可能です」


 力なくつぶやいた阮之の顔は、ひどい苦痛をこらえているかのようにゆがんでいた。


「ですが、ご城主、わたしにはわかりません。奎厦どのが、なぜそのようなことをなさったのか」

「ひとが悪事を企む理由は、つきつめればだいたいふたつ。恨みか、金か。もしくはその両方か……」


 子怜はぐるりと部屋をみわたした。その眼が、床にたおれた書棚にとまる。子怜はおもむろに書棚に歩みよると、並べてあった書物を一冊ぬきとり、それを床にほうりなげた。


「子怜さま!?」

「ご城主、なにを……」


 戸惑うふたりをよそに、子怜はつぎつぎと書物を手にしては投げ捨てる。すっかり書棚を空にすると、今度は棚の内側に指を走らせた。しばらくごそごそやっているうちに、かちり、と、かすかに金具が外れるような音がした。


「隠し底とは念のいったことで……」


 子怜は唇の端をつりあげて小さくつぶやき、さらに書棚の奥をさぐる。ほどなく、子怜は書棚から紙の束をとりだした。数十枚にもおよぶ紙の束には、なにやらびっしりと文字と数字が書きつけてある。


「ご城主、それは……」


 ざっと目をとおし終えると、子怜は紙を阮之にわたした。


「裏帳簿、ていうのかな」


 青ざめた顔で紙の束を受けとった阮之に、「おぼえているかい」と子怜は訊ねる。


「城壁の補修中に事故があったね」

「もちろんです。壁が崩れて……」

「なんで崩れたと思う? 簡単だ。材料が悪かったのさ」


 阮之ははっと目を見ひらいた。子怜は淡々とつづける。


「この城の壁は、黄土を焼き固めた煉瓦を積んで造っているね。あのとき、土台となっていた煉瓦が上部の重みに耐えきれずに崩れた。普通だったらそんなことは起きない。火を入れた煉瓦は頑丈だ。たとえば、このくらいの高さから……」


 子怜は自分の胸のあたりで手を水平にかざす。


「落としたとしても、そう簡単には割れない。割れたとしても、せいぜい端が欠けるくらいだ。なのに、あの壁に用いられていた煉瓦は、落としたら簡単に割れた。それも粉々に。材料の土が悪いのか、火の入れ方がまずかったのか……」


 春明は事故の日のことを思い出した。あの日、奎厦と兵たちとの間に険悪な空気が流れたとき、子怜が煉瓦を落とした。それは、皆の気をそらすためだとばかり思っていたのに――


「いずれにせよ、粗悪品だ。まともな値もつかないような、ね。あれを仕入れたのは、誰だい?」


 答えは、聞かずともわかっていた。


「……そんなはずはありません」


 信じたくない。阮之の顔にはありありとそう書いてあった。

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