第56話 エピローグ(3)
ダニエル・クーパーは、病室のベットの上で静かに息をひきとろうとしていた。
彼が生涯独身を貫いた理由は、家庭というまとまりを否定する自分には、家族を持つ資格がないと自覚していたからだ。
何故、人は生まれるのだろう。
そして、生まれた者は必ず死ぬ。彼も例外ではない。
朦朧とした意識の中で、一生のうちに出会った様々な人々の顔が浮かんできた。
白人、黒人、アジア人、小柄、長身、肥満、痩躯、大富豪、貴族、貧乏人、若者、老人、病人、農家、大工、料理人、大学教授、銀行員、医師、看護師、弁護士、プログラマー、警官、修理工、塗装工、販売員、牧師、美容師、芸術家、歌手、事務員、兵士、出稼ぎ外国人、政治家、学生、物乞い、船員、ドライバー、プロテスタント、カトリック、ムスリム、仏教徒、アメリカ人、中国人、イタリア人、エチオピア人、インド人、ナイジェリア人、ロシア人、ギリシャ人、ペルー人……。
皆、程度の差はあるが自分の財産を持ち、職業を持ち、名前を持ち、故郷を持ち、家族を持ち、誇りを持ち、思想を持ち、歴史を持ち、希望を持ち、趣味を持ち、仲間を持ち、信仰を持って生きていた。
間もなく彼らのような人間はいなくなる。
同じ肌、同じ服装、国にも会社にも所属せず、誰とも関係を持たず、記号のような名前。
定住する家もなく、毎日違う場所にある同じ造りの宿に泊まる。毎日違う場所で違う仕事をし、老後の心配をすることもなく、知らぬ間に安楽死を向かえ、埋葬されることもなく、誰の記憶にも残らない。
それが、彼の考え出した差別のない世界だった。
宗教を否定した彼は、心の底で神を信じていた。幼い頃、毎週日曜日に黒人教会に通っていたからだろう。
彼は常に、自分のしていることは、神の意志に従ってのことだと、自分自身に言い聞かせてきた。
果たして自分のしたことは、本当に正しかったのか。
答えは神のみぞ知る。
神に聞くまでわからないのだ。
だが、まもなくその答えがわかるはずだ。
目の前に二つの道が現れた。広い道と狭い道。どちらも上りの坂道で、はるかな先まで続いている。
どちらかを選ばなければいけない。
広い道のほうは、大勢の人々が歩いている。反対に狭い道を行く者は少ない。
マタイ福音書七章。
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」
彼は、迷うことなく狭い坂道を選んだ。
彼の進む道は、狭いだけではなく、険しく暗く、常に危険が満ちている。
大きく曲がりくねり、ときどき道幅が極端に狭くなり、何度も足を踏み外そうになる。地面は泥だったり、岩場だったりする。草をかき分けて進まなければならないこともあり、蛇や毒虫が潜んでいたりする。
苦難の道のりだ。
彼は、隣の広い道を見た。
道は太陽電池で舗装され、起伏がなく、充分な照明で照らされている。安全で快適な歩道だ。
イエスの言葉通り、広い道の先には、破滅が待っているのだろう。だが、そこを通る人々は、何の苦労もなく、穏やかな心で道を進む。
彼らは、天国に行けないかもしれないが、安逸な日々を過ごしていける。
一方、狭い道の上にいる者は、苦労は絶えないが、その先には天国が待っている。
だが、一体、天国で何をするのだろう。永遠に賛美歌を歌い続けろとでもいうのか。自らの意思で試練の道を歩んできた強い魂が、そのような状況に満足できるはずがない。
すぐに、再び試練の道に出たいと、神に申し出るに違いない。
弱い魂達は、広く快適な道を選ぶ。その先には、崖があり、そこから一気に転げ落ちるのだろう。だが、地に落ちた魂は再び、坂道を歩むはずだ。破滅の先には必ず再生がある。
結局、どちらの道にもゴールは存在しないのだ。
人は、いつまでも歩み続けなければいけない。
弱い魂も、いつの日か強い魂となったときに、彼と同じように狭い道を選ぶ。
彼は立ち止まり、広い道を歩む人々を見つめた。
破滅につながる道なのに、皆、幸せそうに笑っている。
その顔を見たとき、彼は自分のしてきたことが、間違いではなかったと悟った。
それが、神からの回答だった。
生前の彼の行為自体が、神の意思に基づくものなので当然だ。
システムがUV38244を冒険者として選んだように、神はダニエル・クーパーを革命家として選んだのだ。
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