第2話 北回帰線の街(2)

 道路の左右には街路樹はなく、宿屋や工場、食堂、理容店、売店などの建物が並んでいる。全ての建物の正面には看板が掲げてある。

 環境技術の向上に加えて、古代(システムが統治する以前の世界)に較べ人口が減り、完璧な需要予測で無駄な生産が行われないため、空気は綺麗だ。街に緑は少ないが、森林は必要なだけしか伐採されず、地球全体では古代より樹木は多い。二酸化炭素増加の心配はなくなった。


 今の天気は曇りだ。雨が降っても、スーツが防水性のため、フードをかぶればそれほど困らない。ひどい雨の場合、傘を借りることが推奨される。傘を借りるのにポイントは消費されない。借りた傘は返す必要がある。返す先はどこの宿でも売店でもいい。傘を返さず紛失すると、ポイントが減点される。


 彼は、今自分が歩いている場所がどこの街なのかしらない。ウォッチで街の名を確認したので、正確には街の名を思い出せないというべきだ。

 街には名前があり、それを記した大きな標識も立っているが、どの街の名もT102312511のようにタウンのTの後に四桁の緯度、五桁の経度を組み合わせたもので、名前のある地域という概念自体がなかった。


 ウォッチのマップに街や宿などの名前を表示させることもできるが、山や川などの名前は出てこない。利用する対象ではないからだ。古代には山や川に名前があった。今も基本的にその名を使っているが、航海士など特定の業務以外では名前を知ることはない。

 航海士といったが、航海士という職務はあるが、航海士という職業はない。この世界に職業はない。私は医師の資格を持っていますということはできるが、私は医師ですということはない。

 医師の仕事は細かい業務に細分化され、それぞれ資格をとればその職務を行うことはできる。それでも医療業務だけを行う専門家はいない。午前中、売店の仕事をして、午後は診療所で診察。それがこの世界の日常だ。


 職業の存在は不平等を生み出す。従って職業は廃止する。そうシステムの開拓者達は考えた。それで全ての被支配層は、特定の業務のみを続けることはできない。


 この世界にも長距離鉄道や高速道路はあるが、もっぱら物資を運ぶためのものだ。人が長距離を移動する機会が少ない。ほとんどはある街から歩いて、隣の町に移動するだけだ。

 基本的に同じ街に留まることはない。常に移動し続ける。それでも移動速度が遅いので、今自分のいる地域について多少のことは知ることができる。彼のいる場所の東には山岳地帯が広がっていて、西に進むと海がある。

 かつてそこが台湾と呼ばれた島の南西部、嘉南平原の嘉義市だったことは彼にはしるよしもない。今でも台湾島という島の名は残っているが、一般には使用されない。東に広がる山々は阿里山山脈と言う。


 古代、この地には個性豊かな様々な建物が建ち並び、にぎわいを見せた。今は他の地域と全く同じ建物が閑散と並んでいるだけだ。 

 ここだけではない。開拓時代、世界中の全ての建物は撤去され、ステレオタイプな宿や工場、売店などが新しく建てられた。


 駅舎はどこも似た造りで、外見からだとどこなのかわからないが、駅には一応名前がある。ただし、彼らの名前と同じような文字と数字の羅列で覚えにくい。便宜上名前があったほうがいいので、つけられているだけだ。駅舎に限らず、この世界の建築物は、どれもみな飾り気がなく殺風景だ。文化的な要素というものがない。

 そう、この世界には文化がないのだ。文化を生み出す土壌自体が存在しないから仕方がない。

 芸術家もいない。絵を教わることもなく、筆記具も売られていない。アルファベットが読めればそれでいい。 


 その駅も「S232912028」という緯度経度の前にステーションのSをつけただけの無味乾燥な名前で、街の名のTをSに変えただけだった。T232912028という街の駅という意味を持つ。もし同じ街に複数の駅があった場合は‐2を追加する。駅に限らず、宿屋、工場、休憩所、公園などひとつの街に複数の施設がある場合ハイフン(‐)をつけて区別する。

 たとえばF421813525‐6という工場は、T421813525という街の6番目の工場であり、それが正式な名前だ。


 駅構内に入る。床は綺麗に掃除されている。駅に限らず、この世界はどこも綺麗だ。捨てるモノがあまりなく、それでも清掃業務が行われるのがその理由だ。人々には必要なモノしか与えられない。

 人々が所有できるのは、売店で売られている小物雑貨や菓子、清涼飲料水だけで、家、土地、車、家具、絵画、機械類、化粧品、木材、など古代人が当たり前のように持っていたものは販売自体がされていない。


 化粧品は製造されていない。生きていくうえで必要ないからだ。顔に大きな痣があり、化粧で隠したほうがいい場合、その人物は淘汰される。本人には気の毒かもしれないが、痣のある人間が存在しては差別を生む。

 絵画は存在しないが、地面に落書きをすることはよくある。

 衣類は売店で下着が売られているだけだ。皆標準でスーツを着ていて、それを脱ぐことができないので、余計なものは作らない。

 一種類しかないシャンプーは、宿以外で使用することはないので、売店などでは売られていない。


 この駅には売店がない。どこの駅にも売店がない。売店で扱っている商品は飲み物などポイントさえ消費すれば自由に購入できるものと、ウォッチから指示された場合や許可された場合のみ、購入できる限定商品がある。限定商品は仕事で使う場合が多く、店頭に並んでいない。店員に頼んで倉庫から出してもらう。


 駅にはトイレはある。列車にもトイレはあるが、肩の左右のスピーカーが、トイレに行かなくていいかと囁いている。前回トイレを利用した時間からかなり時間が経っているのだろう。もしもらしでもすれば、ポイントを消費して下着を交換する必要がある。


 駅の構内には時刻表がない。切符売り場もない。改札もない。列車がいつ到着するか誰も気にしない。仕事に遅刻しても誰からも文句を言われない。勤務時間が後ろにずれるか、その仕事自体がキャンセルされるだけだ。労働力が足りなくならないように、システムが他の人間を手配するので、誰も困らない。この世界は、人が困らないように出来ている。


 彼の他に、三人の男と二人の女がいた。彼らは互いに話そうとしない。古代でも駅はあったが、見知らぬ相手とは話をしなかった。この世界では見知った相手と出くわすことなど滅多にない。会ったことがあっても、印象が薄く記憶に残らない。皆同じ服装で、同じ肌の色で、同じくらいの背格好で、年齢と性別くらいしか違いはなかった。方言も出身地もなく、個性が少なく、印象に残らない。


 誰もが他人で誰もが孤独だった。人と出くわしても話題がない。国もない、民族もない、地域もない、先祖もない、家庭もない、宗教もない、戸籍もない、祭りもない、歴史もない、計画もない、希望もない、心配もない、クラブもない、会社もない、だから話題がないのだ。


 それでも人が集まる場所では会話が発生することがある。内容はたいていこんな感じだ。

「今ポイントいくら溜まってる?」

「ゼロだよ」

「俺もだよ。カフェにいるとすぐ使っちまう」

 ポイント残高は50未満が普通だ。

「この間、なんという街が忘れたけど、車捕まえようとうろついてたら、ラッキーポイント百もらえたぜ」

「本当かい? 百とはすげえな」

「十日で無くなったけどな」

「うらやましい」


 ラッキーポイントの入手は、道で犬の糞を踏むのに似ている。グラスをかけていればポイントゾーンが色つきで表示されるが、道を普通に歩くのにグラスをかけることなどあまりない。知らないうちにラッキーゾーンを踏んでしまい、肩のスピーカーから「ラッキーゾーンです。20ポイント獲得しました」という案内が流れる。するとたいていの人間は、ウォッチでポイント残高をチェックする。

 ポイントがなくても、最低限の食事は提供されるので餓死することはない。ただ、宿の部屋に入ることはできても、ベッドを使えずソファで寝ることになり、体を洗うことも、下着の交換もできない。だから、全ての人間は、選択業務でポイントを稼ぐ。

 ポイントに余裕があれば、食堂でおかずの品が増え、カフェで過ごすこともでき、売店で菓子などを買うこともできる。


 業務によってポイントが異なるが、近場で楽な仕事を選べば、一時間働いて1ポイントもらえるというのが相場だ。平均で2。5となると滅多になく、いくつかの資格がいるもので、内容もハードだ。

 使う場合も内容で消費ポイントが異なる。

 菓子や清涼飲料水などは1から3ポイント。

 食堂のおかずは1から3。

 カフェでコーヒー一杯1ポイント。

 宿はポイントがなくても泊まれるが、オプションサービスはポイントを消費する。交換用下着の提供1ポイント、シャワー1ポイント、ベッド使用1ポイント、壁掛けディスプレーの使用1ポイント。ポイントがなければ汚い体のままソファで寝ることになる。


 たとえ人が何万ポイント持っていようと、盗むことはできない。うらやむだけだ。だが、購入した商品をもらうことはある。盗みは禁物だ。

 盗むと言っても盗める物自体が少ない。

 この世界には家も銀行もロッカーもない。ある場所でなにかを保管しようとしても、移動を続けるので意味がない。自分の物は全て自分で持ち歩く必要がある。

 スーツには四箇所ポケットがある。場所は古代と同じで左右の脇と腿。ポケット以外に布製の手提げ袋をよく使う。


 布袋は手で提げて使ったり、肩にかけたりして使う。スーツの肩の部分には、袋の取っ手をひっかける箇所があり、そこから前や後ろに垂らして歩いている光景をよく見る。

 日用品はどの街にもある売店で購入する。

 たいした物は売っていない。店頭の棚に並んでいるのは、クッキーや豆菓子などの菓子類、清涼飲料水、ポケットティッシュ、ハンカチ程度だ。商品に盗難防止用のタグは付いていないが、商品を棚から取り上げた人物が記憶される。規定時間内にレジカウンターで処理が行われていなければ、盗難と判断される。


 この世界に警察はないが、逃亡することはできない。商品の対価以上にポイントを減らされる。ポイントがない場合は必須業務が入る。暴れる凶悪犯は、システムがスーツのワイヤーを操り、しばらく身動きがとれない状況を体験することになる。

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