名前のない男

 人気の少ない場所に、ひとつの研究所があった。そこにはひとりの博士である男と、その助手の青年が住んでいた。

 ある朝。博士は研究室の机で何か考え事をするように天井を見つめていた。その様子を見た青年が尋ねる。

「どうかしましたか」

 博士は青年に声をかけられても数秒天井を見つめていた。その後、まだ考え事から抜け出せないような表情で振り返り、言った。

「いや、不思議な体験をしてな」

「どんな体験ですか」

「昨日の夜の事だ。私は行きつけのバーで酒を飲んでいた。気持ちよく飲んでいると、隣の席の男が話しかけてきた。面白いやつでね。話が弾んだよ」

「特に変わった話じゃないではありませんか」

「そう焦るな。不思議なのはここからだ。会話の中で、私はふと、その男に名前を聞いたんだ。そしたらその男、名前がないと言い出してきた」

「一体どういう意味です」

「私も同じ事を聞いたよ。一体どういう意味だ、ってね。そしたらその男、真面目な顔で人は死ぬと名前がなくなると言ってきた」

「なんですかその話。不気味だ」

「そうだろう。私は彼に、つまりあなたは死んでいるということですか、と聞いた。彼はそうですと答えたよ。私はジョークだと思い、彼の肩を叩こうとしたが、スカッとなって触れなかった」

 青年は驚き、口をおさえる。

「本物の幽霊だったんですね」

「ああ。しかし、私はさほど驚かなかった。驚きよりも、幽霊についての好奇心の方が勝ってしまったんだ。一種の職業病だな。私は幽霊について色々聞いたよ」

「博士らしいです」

「聞いていたらな、段々死後の世界のことが分かってきた。生き物というのは、死ぬと成仏し、完全に無に帰るらしい。しかし、恨みをもって死んでいったものは、その魂がこの世に残り、恨みがはれるまでは永遠にこの世をさ迷い続けるのだそうだ」

「恐ろしい話です」

「そうかな。私はそうは思わなかった。恨みがはれるまで永遠にこの世をさ迷い続けるといのは、逆を言えば、永遠の命じゃないか。私はむしろ無に返る方が怖い。それこそ恐ろしいよ」

「確かにそうかもしれません」

「私は、死後幽霊になると決めた。しかし、私は誰かに恨みをもっているわけではない。だから、これから誰かに恨みを持とうと思う。しかし、恨みというものは、持とうと思って持てるものではないな……」

 そう言うと、また机に向かって考え事を始めた。誰を、どうやって恨むか考えているのだ。

 そんな博士の後ろ姿を見て、青年はひとつの考えが浮かんだ。早速それを実行する。青年は近くにあったツボを持ち上げ、思いっきり博士の頭に叩きつける……。

 ツボが勢いよく割れた。それと同時に博士は床に倒れ、力尽きた。


 その夜。寝ている青年の元に、博士の幽霊が現れた。

「おい、お前。いきなりなんてことしてくれる。まさかお前に殺されるとは。ひどい、ひどすぎる。呪ってやる……」

 青年は博士の罵る言葉を止め、言った。

「まあ、話を聞いてください。これは博士のためを思ってやったことなのです。僕に理不尽に殺されたことによって、あなたは僕に恨みをもつ。つまり博士は、晴れて幽霊というわけです。永遠の命を手に入れたのです」

 博士は腕を組み、しばらくその意味を考えた。すると、その意味を理解し、笑顔で言った。

「なるほど。そういうことだったのか。さっきはすまない。本当にありがとう……」

 博士が青年にお礼を言ったその時、博士は成仏し、無へと帰った。

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はじまり 峻一 @zawazawa

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