大切な人

 ある病院の霊安室。そこには、息絶えたひとりの青年の姿があった。交通事故が原因だった。一人息子を失ったその青年の家族に、底知れぬ悲しみが襲いかかる。

「どうしてこんなことに……」

 その青年の母親がひとり、病院の薄暗い待合室の椅子に座り、うつむきながら呟く。すると、いつの間にか母親の隣に座っていた老人が、落ち込むその母親に声をかけた。

「どうしました。私でよければ話を聞きますよ」

 母親とその老人は全くの他人だったが、母親は悲しみを少しでも和らげるため、その老人に話すことにした。

「私の息子が事故にあって亡くなってしまったのです。一人息子でした。もう、どうしたらいいのか」

 その話を切ない顔で聞く老人は、うなずき、言った。

「それはお気の毒ですね。息子を取り戻したいですか」

「ええ。もちろんですよ。しかし、そんなこと……」

「できますよ」

 母親はうつむいていた顔を老人に見せ、言った。

「なんと言いました」

「できますよ、と言いました」

 老人にふざけた様子はない。その母親の目をまっすぐ見て言ったのだ。

「どういう意味なのかしら」

 母親が聞くと、老人は上着のポケットから一枚の紙を取り出した。小さい紙だった。

「この紙を燃やし、息子を生き返らせたいと心の中で願えば、あなたの息子は生き返ります」

 母親は目を見開いて驚く。

「本当に。そんなことあるの」

「はい。しかし、その代わりに、あなたにとってその息子と同じくらい大切な人が死にます」

「なんですって」

 まさに、悪魔の取り引きのようなものだった。それでも、母親はその紙を受けとることにした。

「……もらってもいいかしら」

「はい。どうぞ」

 母親はその紙を受け取ると、すぐに病院を出て、適当な店でライターを買い、近くの空き地でその紙を燃やし始めた。躊躇はなかった。


 次の日。本当に息子は生き返っていた。何事もなかったかのように二階から降りてきたのだ。母親はすごく嬉しかったが、それ以上に不安でもあった。本当に生き返ったということは、誰かが死ぬのだ。それも、すごく大切な人。母親はその日からしばらく眠ることができなかった。


 しかし、いつまでたっても、誰も死ぬことはなかった。そしてある日、母親は気づく。息子と同じくらい大切な人がいないことを。

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