鏡の中へ

 とある研究所のある朝。ここ数日眠らず、黙々と作業を続けてきた博士である男は、ついにその手を止めた。その装置の完成に男が喜びの声をあげると、助手の青年が目を擦りながら眠そうにやってきた。

「どうしたんですか」

「どうしたんですか、じゃない。君は人はいいが、不器用すぎて助手として使えない。まあ、だからと言ってクビにするのは……」

「クビにするなんて言わないでください。僕は確かに不器用ですが、全く使えない訳ではないでしょう。たった今何か出来たそうですね。危険じゃないなら、いつも通り実験台になります」

 男は装置の事を思いだし、思わず笑みをこぼした。

「そうだった。実験台という訳ではないが、協力してもらおう」

「どういう意味です」

 男はたった今完成した、高さ二メートル、横幅一メートルほどの黒い箱形装置をなでながら言った。

「簡単に言うと、これは鏡の中へ入れる装置なんだ」

 助手の青年は思わず耳を疑った。

「冗談でしょう」

「冗談なんかじゃない。私はある日ふと、鏡はただ映るものを映しているのではなく、もう一つの、全く別な、左右反対の世界を映しているものではないのか、と考えた。つまり、全く同じ動きをする、鏡に映っている私そっくりの男もまた、この世界の私を見ているというように。それを仮説に色々計算を重ね、この装置が出来たというわけだ」

「なるほど。しかし、私を実験台に使うのではなく、協力してもらうという言い方をしたのはどうしてですか」

「ああ。鏡の中に入れるのは実証済みだからだ。君にして欲しいことはたった一つ。やってくれるな」

「もちろんです」

「よし。では、これから君は、この装置を使って鏡の中の私の部屋に忍びこんでくれ。そして、その部屋にある金庫から金を盗んで戻ってくるのだ」

「そんなことしていいのですか。あなたの金を盗むなんて」

「気にするな。実際は私の金ではなく、私そっくりの奴の金なんだから」

「そうですか」

 そうして、その日の夜十二時、計画は移された。鏡の中へ入れる装置を使って助手の青年を男の部屋に忍び込ませ、金を取ってくる。鏡の中の世界は何もかも同じため、金庫の暗証番号も同じ。青年は持っていったアタッシュケースに大金を入るだけ詰めた。

「よし、あとは戻るだけだ」

「それはできない」

 後ろから突然声をかけられた。青年は驚き振り替えると、そこには博士である男が立っていた。

「どういうことです。なぜ、あなたもこちらの世界へ」

「いや、私は君と違う世界で暮らす私だ。つまり、君が元々いた世界にいた私そっくりのやつとは別人だ」

 青年は混乱した頭でしばらく考え、やっとその意味を理解した。

「なるほど。では、計画は失敗したということですね……」

 青年は悔しそうに腕を組んだ。その後すぐに、目の前にいる男から金を盗もうとしたことを思いだし、必死に謝り始めた。

「私は、あなたの金を盗みたくて盗もうとしたわけではないのです。あなたそっくりの男に命令されて、嫌々したわけで……」

「謝らなくていい。私も同じ事をした。私も君にそっくりなやつを鏡の世界に送り込み、私そっくりのやつから金を盗もうとした」

「なるほど。あなたも同じ事をしようとしたのですね。よくよく考えれば、当たり前の話です」

 博士である男はごほんと咳をひとつついてから、気まずそうに話した。

「実は、鏡の中に入る装置が壊れてしまったのだ。修理するのにしばらく時間がかかる。だから、君にはしばらくこちらの世界で生活してもらう」

「なんですって」

 そうして、青年は今も鏡の中の世界で暮らしている。その世界では、元々いた世界と違うところは一つもなく、不自由ない生活を送れるのだが、青年はいつも、自分がひとりぼっちである気がしてならないのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る