綱渡り
その男は、死を覚悟していた。なぜなら、今から高さ百メートルはある、二つの高層ビルに架けられた綱を、歩いて渡らなければならないのだから。
こうなったのは、あまりにも理不尽すぎる理由からだった。ついさっき、日課である朝の散歩をしていると、いきなり黒ずくめの悪そうなやつらに囲まれ、無理やり車に乗せられると、説明もなくここまで連れてこられた。そして、理不尽にもここを渡りきれと言われたのだ。なぜこんなことをするのか、と聞くと、さっさと渡れと怒鳴られた。
渡るのをためらっていると、隣から悲鳴のような声が聞こえた。声のした方を見ると、同じように連れてこられた人たちがいた。青年、中年女性、子供までいた。皆恐怖に怯えた顔をしている。
ひどすぎる。ありえない。きっとこれは夢だ。男は自分に言い聞かせるように呟いたが、やはり、死を感じる。それは本能的であり、事実だった。
男が中々渡れずにいると、後ろから声がした。
「頑張って」
振り返ると、そこには男の恋人がいた。
「どうしてここに。一体これはどういうことだ」
「大丈夫。あなたなら大丈夫よ」
「そんなこと言われても……」
男は困惑しながらも、黒ずくめのやつらにせかされ、ついに渡り始めた。男は一歩ずつ、一歩ずつ足を進める。その足は恐怖から小刻みに震え、頭がおかしくなりそうだった。
そんな時、周りでも綱渡りをし始めてたのが分かった。誰もが恐怖に足を震わせ、絶望の中だ。
男は後ろから聞こえてくる恋人の声援を背に、ゆっくり、確実に歩いていく。
風が吹き、寒さを感じ始め、いつ落ちてもおかしくなかった。実際、何人か落ちてしまったようだ。しかし、男は諦めなかった。後ろから応援してくれる恋人がいたからだ。それは男にとって、とても頼もしい存在だった。絶望の中の、たったひとつの光だった。
しかし、もう体力的にも、精神的にも限界だった。それにも関わらず、黒ずくめの奴らが綱を揺らしてきやがった。バランスをとろうとするが、耐えきれない。男は咄嗟に縄に捕まり、耐える。諦めたかったが、恋人は依然として、声を枯らす程大きな声で、声援を送り続けてくれている。男は手に力を入れ、残り少しの距離を目指して渡り始めた。
そして、ついに後三歩、二歩、一歩……。
男はついに渡りきった。すると、なぜか今までの疲れがふっとび、元気が沸いてくる……。
「目を覚ましたぞ」
医師や看護師、男の家族などがそこにはいた。男は手術を受けていたのだ。
何があったのか分からない男に、医師が声をかけた。
「あなたは大きな交通事故にあい、死の瀬戸際だったのです。正直、助かる見込みはありませんでした。しかし、助かった。これは奇跡です」
男はそう言われ、綱渡りをしていたことを思い出す。きっと、落ちていたら死んでいた。ということは……。
男は笑いかけてくる恋人の顔を見つめながら呟いた。
「命綱があったからだな」
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