EP11-02
イマリは遠い目に懐かしみを浮かべて語る。その口調には、およそ年齢に似つかわしくない達観めいたものが滲んでいた。
「慌てて駆け回る人。頭を抱えて塞ぎ込む人。私のママも例に漏れず、『パパにコネクト出来ない』っておろおろと狼狽えてた。そうそう、『俺の残高は一体どうなるんだ』なんて、みっともなく喚き散らす馬鹿も居たわね」
地上八十階のオープンテラスで、貯金なんて一銭もないと明かしたイマリを思い返す。短絡的に結び付けるにはあまりにも根拠不足だけれど、イマリの刹那的な生き方の
「あの瞬間、私は幻滅したの。私が大人だと思い込んでいた人たちは、誰も彼もが子供だった。私の足は何も変わらずに大地を踏み締めているのに、
ふぅと嘆息してから、呆れたように続けるイマリ。
「どうしてこんなことで混乱するんだろう? この人たちに考える力はないのかなって──そう思いながら辺りを見渡してみた。そしたらね、
陶酔を孕んだ様子のイマリは、どこか危なっかしさを感じさせた。
「まさか
「良いのよ。ホムラに教養なんて期待してない。
私の軽口は、それ以上の軽口であしらわれてしまった。僅かな徒労感を覚えながらも私は告げる。おそらく、彼女にきちんと言っておかなくてはならないことを。
「つまり私は──イマリの理解者にはなれない。だからイマリも、きっと私の理解者にはなれない」
「それも良いの。分かり合えるなんて最初から思ってない」
断腸の思いで吐き出した言葉も、イマリはひらりと躱す。
「ホムラ、あなたの思想はいつだって
「はは……それは光栄だ。暴力を振るわずにいてくれれば、釣り合う気持ちを返せるように最大限努力する」
「ふふ、ホムラが彼氏になったら大切にしてあげる」
私の背筋を薄ら寒いものが伝う。腕の良い
「もしもホムラが何らかの
イマリが今しているのは、彼女の美学の話なのか? 回想でも説得でもなく、ただ自身の美学を
私が今まで見てきたものは、高潔で穢れない衣乃イマリの上澄みの部分。しかしその深層部分においても、彼女はきっと穢れないだろう。彼女は自身の掲げる美学の不確かさを、爪の先ほども疑っていないのだから。
「前にも言ったけど、コンダクターという仕事は私にぴったり。お金も地位も手っ取り早く手に入るし、トーマ博士やミツキ博士と同じ景色を見ることが出来る。それってつまり、奪う側の立場で居るための最良の手段だと思わない?」
「イマリ。口を慎め」
イマリの世迷い言に、思わず語気を強めて言う。トーマ博士の真意はともかくとしても、
「ホムラ──先日の優しい言い方では伝わらなかったみたいね。良い機会だから教えてあげる。均衡は罪。平等は罪。過信も罪。慢心も罪。なぜならそれらは、必ず次の
「違う、その考え方こそ過信や慢心だ。上澄みの世界から取り残された者たちの尊厳はどうなる」
私の剣呑な眼差しと、イマリの冷淡な眼差しが交じり合う。目の前にいるはずの彼女に、とてつもない距離を感じた。友人だったはずのものと、永遠の決別をつけているような気分だった。
イマリが問う。
それはとても──とても悲しそうに。
「ねぇホムラ?
友人からの退職勧告に、思わず目を
退職勧告だなんて──まるでサヨさんのようなことを言う。それでも、二人の言葉の意味は決して同じものじゃない。
噛み締めた唇から鉄の味が滲む。喉元まで出かかった糾弾の言葉を、赤い血と共に呑み下した。イマリと私は、分かり合えない。私たちを隔てる
落胆の嘆息さえも噛み殺し、その代わりに長く長く息を吐いた。
気付けば私の拳は震えている。それは怒りか、哀しみか。
「分かったよ──きっとイマリの言うとおりだ。私は近いうちにDUMを去ることにする。これ以上コンダクターを続けていたら、イマリ以外の誰かにも不快な思いをさせるだろう」
震える声で絞り出す。「色々と心配をかけて済まなかった」と。目眩ましには丁度良い嘘だ。しかしそれは、あながち全てが嘘というわけでもない。
そう遠くない未来に、イマリも含めた私たちは、この楽園を失うことになるのだから。
「ホムラごめんね。こんなことを言いたかったわけじゃないの。私がホムラに伝えたかったのはね──」
イマリの言葉の続きを遮って、私は言う。
いっそ撃ち殺してくれて構わないとさえ思った。
「──関係ないんだろ? イマリにとっては、無意味なんだ。たとえこの世界が、あの水槽の中のように管理された箱庭だとしても、イマリは言う。『私は私の足で立つだけ。私の思うように生きるだけ』と」
「そうよ。私は私の目で見て、私の耳で聞いて、私の脳みそで考えているの。私の足で立って、私が決めたことを、私の思うように実行するだけ」
もう解っていた。たとえ世界の
イマリの世界は、イマリの中だけで完結している。
まるで、砂場を独り占めする子供のように。
それはもしかすれば、常人の領域では辿り着けない境地なのかもしれない。
しかし私は、それを強さだとは思えない。
その生き方が美しいものだと、どうしても思い込むことが出来ないのだ。
「イマリ──さよならだ。私の退職が受理されるまでは、どこかで見かけても空気のように思ってくれ」
イマリの脇をすり抜けて、私は歩き出した。言葉にならない金切り声が、背中を貫く痛みを堪らえながら。
イマリが私に抱いた疑惑は、侮蔑や絶望に変わっただろうか。衣乃イマリの中の雪白ホムラは、理解する価値もない凡人として処理されただろうか。
一体どれだけの痛みが、この世界を満たしているのだろうと気が遠くなった。
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