EP03-02
「
星々が流れ落ちるかのように、突如として天空から舞い降りた声は、落ち着き払っていながらもどこか
息苦しい沈黙を存分に挟んでから、サヨさんがようやくとして口を開いた。
「ゲントク老師、申し訳ございません。老師の御前だというのに、聞き苦しい会話を」
老師と呼ばれた声の主は、
通称"ゲントク老師"は、
「雪白ホムラ。先人には先人の経験に基づいた、深い知恵と尊ぶべき考えがある。今少しの理解を願いたい」
這うような足音がわずかに響く。老師の気配は、私が立っている
「老師、しかし──」
乾いた私の声。満天の星空の下、異様なプレッシャーに包まれた精一杯の声。
「何人も、去った」
老師の動きを察したサヨさんが、足早に私の高さまで降りてきた。額に片手をあてて、眉間にシワを寄せている。一瞬、私とサヨさんの目線が交わったけれど、それはすぐに引き離された。ついに老師の足元が見えたからだ。
「ヒュムたちは確かに一つの生命体として尊重されるべき。しかし」
恐縮する私とサヨさんを前に、老師は独りごちるようにゆっくりと語り続ける。
「必ず近い未来に昇華する命だ」
最下層にまで降りてきた老師の姿を目の当たりにする。こうして間近で対面するのは初めての経験だった。老師は軍服を想起させる色合いをしたタイトなスーツに身を包んでいた。星明かりの照度の中で、濃色の緑が更に深みを増している。
老師の顔には細かな
「雪白ホムラ。君のように若くて情熱的な指導者が、何人も去った」
老師は私の目を真っ直ぐに見つめて、柔らかく微笑んだ。その微笑みの優しさに、私はより一層身構えて躰を硬直させる。
「……恐れながらゲントク老師、それは一体どのような意味でしょうか」
老師の黒い瞳をじっと見つめ返して尋ねる。たったそれだけでどれほどの
「昇華、昇華、昇華──『
老師はそう言って上機嫌に一人笑う。私は老師の真っ黒な瞳に、そのまま吸い込まれてしまいそうだった。漆黒のプラネタリウムに突如現れた
「だがその生命の消滅に、放たれる死の匂いに──精神を崩壊させる人間も居る。耐えられないのだ、
擬似天体に響き渡る老師の言葉の前に、私とサヨさんの二人分の無言が広がった。明滅する星たちが、不安げに私たちを眺めては瞬きを繰り返す。
「君は優秀だから、年寄りの私は多くを語るまい。私の言いたいことは分かるね? 雪白ホムラ」
「……はい」
「天語サヨの気持ちを汲んでやりなさい。ヒュムたちにあまり入れ込んではいかん」
そう言ってまたにこりと微笑む老師。老師の言いたいことは分かっている。そして、サヨさんの言いたいことも──。
私たちは奪う側の人間だ。どんな感傷も、どんな愛情も、偽善にすぎない。どんな感情も、どんな愛着も、最後は『死』という
私だって、サヨさんが心底冷たい人間だなんて微塵も思っていない。それに、老師の重圧に寿命の縮むような思いを味わうのなら、サヨさんと言い争っていた方が何倍もマシというものだ。
「サヨさん、すみませんでした。そして老師──申し訳ございませんでした」
サヨさんに向けて丁寧に頭を下げてから、老師の方を向き直してもう一度頭を下げる。上体を起こした私に、サヨさんは一瞬だけ戸惑ったような表情を見せたけれど、すぐにいつもの不機嫌そうな目付きに戻った。そして私の左肩を軽く叩く──先ほどとは違い、今度のそれには幾らかの優しさが込められていたように思う。
安堵。場を包んでいた緊張感が和らいでいく。この部屋を支配していた重力も抜けて、躰が軽くなっていく錯覚さえ覚えた。私はそこで初めて、サヨさんの良い香りが辺りを包んでいることに気付く。この香りにも気が付かないくらい緊張していたのだろう。
「お騒がせしました、ゲントク老師。全ては私の指導力不足が招いた事態です。ありがとうございました」
サヨさんが老師に頭を下げた。私のそれよりも深々と。
「いやいや、私の方こそ済まない。思わず若者同士の会話に口を挟んでしまった。我ながら恥知らずな行為だった」
本当に恥ずかしそうに鼻の頭を掻く老師は、どこにでも居る普通のお爺さんみたいだ。そんな私の考えを見抜いてか見抜かずしてか、老師は私の方を向き直って真面目な表情を浮かべる──いかにも表情を取り繕ったという感じがして、慌てて笑いを堪える私。
「雪白ホムラ。君は君の母親を、もっと誇りに思って良い。雪白ミツキの唱えた複製体保護法により、ヒュムたちは救われた。人類は
沈黙がたっぷりと五秒、十秒。迷いを振り払うようにして老師が言葉を繋げる。
「それを見守る側はどうだ。高い社会的評価と、それに見合う報酬が与えられて尚、
老師が躰ごと後ろを振り返り、私とサヨさんから表情が見えなくなる。
「どれだけ優秀な
そっと横目でサヨさんを窺う。サヨさんの視線は、老師の後ろ姿を真っ直ぐに見据えていた。彼女の悲壮な眼差しに、魔女の面影は微塵もない。その凛とした姿に思わず見惚れてしまいそうになる。
「これは極めて個人的な年寄りの戯れ言だが……私はヒュムの人権よりも、
サヨさんは無言のままに目を瞑る。崇高な絵画かと見紛うほど、サヨさんのシルエットは神秘的だった。擬似天体の元に、長く永い静寂が訪れる。
私は、どうしていいのか分からずに黙っていた。老師の胸中を推し量ることも、サヨさんの胸中を推し量ることも、どちらも軽率な行為のような気がして気が引けてしまう。
沈黙を選び続ける私を、老師はあたたかな視線で見守っていた。幼子を
「それにしても雪白ホムラ、そんな心優しい先輩に向かって、
老師の口から耳を疑うような台詞が飛び出し、私の目が見開かれる。みるみると顔が火照っていくのが、即座に自覚出来た。
「ろ、老師っ。私はたしかに、
慌てふためく私を見て、老師がお腹を抱えて笑い始めた。さっきまでと同一人物とは思えないほどに砕けた様子だ。サヨさんもその隣で笑いを堪えてはいるけれど、口元が完全に緩んでしまっている。
「ホムラ、朝のやり取りは今しがた報告させてもらいました」
「よりにもよって老師に話さなくても! それに私は、
作り物の星空に、二人の笑い声と私の金切り声が響く。私の赤面を覆い隠してくれているこの暗闇に、感謝を忘れてはならないだろう。
──本当の本当に、職場での発言には気を付けよう。
まるで標語のような反省を心の中で呟く。過ぎた時間は戻らない──ああ、これもまた標語みたいだ。
「失礼致します。サヨさん、良い朝ですね。ホムラもおは──って、え?」
絶妙にして最悪なタイミングで、きらびやかな髪色をしたコンダクターが入室してきた。彼女の名は
イマリが入室する一瞬に射し込んできたメインガーデンの光が、私の目に突き刺さって染みた。イマリの美しい
そんなイマリは、このスリーショットを目の当たりにして、驚きの色を隠そうともしない。いつもは我の強い眼差しも、豆鉄砲を食らった鳩みたく丸くなっている。
「サヨさん……は分かるんですけど、え? 何で老師がこんな所に? は? ホムラ、ちょっと何これ?!」
錯乱したイマリが、何故か私を小突いてきた。彼女は即座に私の後ろに回り込んで、背後からちょこんと顔を出して老師を見やる。イマリの行動が、アゲハやアリスと寸分
『見ての通りよ』
私とサヨさんの完璧なユニゾン。
本当に見ての通りなのだから、他に言いようもない。
「やあ衣乃イマリ。ご機嫌いかがか」
意気揚々と、イマリに向けて右手を上げる老師。その気さくさが、逆にイマリを緊張させているのは明らかだった。
「お、おはようございます! 私のような未熟者の名前を覚えて頂き、光栄です!」
「もちろん知っている。勉学の分野から護身術、更には救命術に至るまで──昨年期の全ての試験を首席で卒業した君を、知らない者は居ない。私もスーパールーキーに期待している一人だ」
大袈裟な動作でイマリが慌てふためく。そういえば老師は、私のことも当たり前にフルネームで呼んでいたけれど──もしかすると私たちの名前と顔を一人残らず記憶しているのだろうか。
「スーパールーキーだなんて──そんな……ありがとうございます!」
湯沸かしポットから出る湯気のように、イマリの頭から蒸気が吹き出す姿が見えた。私はいつだって、想像力が豊かなのだ。
しかし老師の言うことはお世辞でも何でもなく、
イマリは、私たちに定められた全ての必須科目で首席を収めてスクールを卒業した。しかも首席を取ったのは、同期の成績の中だけではない。過去の卒業者の各科目と比べても──そのどれもがナンバーワンだったというのだから驚きだ。私の成績は──ご想像にお任せする。
「老師、そろそろお時間です。これより来客がお見えになります。それにあなたたちも、講義を始める時間が近付いているわ」
サヨさんはいつも通りの真顔と凍るような口調で、老師とイマリの会話を遮断した。
「ふむ、そうか──雪白ホムラ、衣乃イマリ。ではまたの機会に」
老師は何度か振り返りながら、上層を包む薄闇の中へ消えていった。振り返る度に小振りで手を振るその姿が、どこか無邪気さを感じさせる。それに続いて、サヨさんも姿を消した。暗闇の中へと消えていった。
いつも通りの平穏な時間が訪れた──と思った矢先、イマリから怒声が上がる。
「ちょっとホムラ! 何を話してたの? この私に抜け駆けってどういうことよ」
ピンと伸ばされたイマリの人差し指が眼前に迫る。イマリの成績は超が付くほど優秀だけれど、その性格は超が三つ付くほど残念極まりないのだ。
「別に何も。たまたまよ」
「たまたまで老師が最下層まで降りてくるわけないでしょ。あ、まさかミツキ博士の七光りを使ったんじゃないでしょうね」
「七光りとは随分じゃない。イマリ、沸騰してた方が可愛いよ。『スーパールーキーだなんて──そんな……ありがとうございます!』って」
躰をもじらせながら高揚するイマリを、大袈裟に真似してやった。
この職に就いている限り、どうしても母さんの名前が付き纏う。以前はいちいち腹を立てたものだけれど、今ではすっかり耐性がついてしまった。事ある毎にイマリが七光りと揶揄してくるおかげかもしれない。
実際問題、母さんが居なければこのDUM自体が存在しない可能性は否めない。だから母さんの名前が付き纏うのは仕方なしとしても、私がスクールを卒業出来たのは、決して母さんのおかげではない。
「誰だって、何の準備もなく老師の前に立たされたら緊張するわよ! ってかホムラも聞いたでしょ? あの老師に褒められちゃった。容姿までナンバーワンだって」
そう言ってイマリは、心底嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねている。生きる伝説に褒められたことが相当に嬉しかったらしい。怒ったり喜んだり常に忙しい彼女は、年中こんな感じで感情を包み隠さない。
「美貌は、言ってたかな? 私には聞き取れなかった」
「は? バカじゃない? 耳が悪いんじゃない? 絶対言ってたし」
イマリが肩を怒らせる。絶対にイマリの思い込みだと思うけれど、客観的かつ公平なジャッジを付け足しておくと、事実の一つとして美貌もナンバーワンである可能性は多分にある。
人の好みは様々で一概には言えないにしても、イマリは黙ってさえいれば同性の私から見ても良い女だ。きちんと手入れされたブロンドの髪には、
「まぁ、良かったじゃんホムラ。こんな素敵な私と友達でいられて鼻が高いでしょ」
「え? 友達なの? 私たち」
図に乗る友人に対して即答する。辛辣な口調にしかめっ面も添えて。
「ち、違うの?」
イマリは急に不安げな表情になる。飼い主を待つ子犬みたいに、私を見つめて救いの手を待つ彼女。そんなに萎れた顔をされてしまうと、何だか私が悪者みたいだ──っていうか、メンタル弱すぎないか。
「冗談だって。もちろん友達に決まってる」
イマリの肩を抱き寄せ、やや強引にスキンシップを図る。引き続き心労の絶えない私が、
「なんだ、ビックリさせないでよ。言って良い冗談と悪い冗談があるわ」
ものの数秒で立ち直ったイマリが、私の腕を解いて鼻を鳴らす。可愛い奴なのか憎らしい奴なのか、判断の難しいところだ。
「私はあなたが気に入ってるのよ。分かる? あのミツキ博士の娘だというのに、成績もあんまりで性格だってあんまりのあなたが好きなのよ」
すっかり主導権を握った彼女が、厚かましささえ感じさせる口調でそう言い放った。女同士とはいえ、こうもストレートに『好き』と言われるとむず痒いものがある。
「というわけでホムラ」
「はい」
真面目に切り返すには突っ込み所が多すぎるので、私は半ば諦めて聞き手に回り続ける。どうせ私は、成績もあんまりだし性格もあんまりだ。ただ性格に関しては、イマリの方が破綻していると思うけれど。
「ランチしましょう。明日でいいわ、奢ってあげる。確か明日はオフよね?」
「……はい」
「決まりね。明日の朝に
こうしてイマリのペースに終始付き合わされたまま、明日の予定が書き込まれた。
──どうしてコンダクターには、こんなに変わり者が多いのだろう?
老師を、サヨさんを、そしてイマリの顔を思い浮かべながら、私はつくづく不思議に思って首を傾げるのだった。
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