EP06-02
何も手に付かないままに、講義室の並ぶ通路を延々と往復するだけの私。どこに行くわけでもなく、誰かを待っているわけでもなく──その姿は、どこからどう見ても不審者でしかなかったはずだ。
だから、アゲハが屈託のない笑顔で声を掛けてくれた時、申し訳のない気持ちを覚えた。いくら無邪気な彼女とはいえ、幾許かの勇気を振り絞って話しかけてくれたに違いないのだ。
「ホムラちゃん? どうしたの? おでこにシワが寄ってるよ」
そう言ってアゲハは、自分の額を指先で
回廊状に連なる廊下を、アゲハの歩調に合わせながら歩く。相変わらず足取りの定まらない彼女は、代わり映えのしないこの景観の中にさえも、あちらこちらに目新しさを見つけられるようだ。
「照明ってじーっと見ると明るさが全部違うよね」とか、「この場所に立つと私の影が三つも伸びるんだよ」とか──そういったアゲハの小さな発見の一つ一つに、「そうか」と気のない返事しか出来ない自分を情けなく思った。
付かず離れずの距離で、
──馬鹿げてる。そんなこと、絶対にあるわけがない。
そう結論付けて、私は嘲笑する。アゲハに気取られぬように、心の中で。
「ねぇねぇホムラちゃん」
まさに今思い出したというふうに、私の進行方向に回り込んで進路を妨げるアゲハ。どうせ向かうあてなどない私は、特に何も思わずに歩みを止める。
「あのね、あのね、アリスがね、ちょっとだけ元気になったんだよ」
「──え?」
アゲハの報告に虚を突かれた私は、全身を覆っていた陰鬱な気持ちから、ほんの少しだけ解放される。
「ホムラちゃんが、アリスにお話してくれたんでしょ? アリスね、カリンちゃんやツムギくんとも仲直りしたんだから」
「そうか……良かった。カリンたちが折れてくれたんだな」
私の憶測に対して、「ぶっぶー」と人差し指でばってんを作るアゲハ。どこか悪戯めいたその笑みが微笑ましい。
「ホムラちゃん、ハズレです。アリスの方から謝ったんだよ」
「アリスから?」
「うんうん、アリスから!」
両手を大きく広げ、万歳の形で喜びを表現するアゲハ。アリスが自らカリンやツムギへと話しかけるその光景を想像し、思わず涙腺が緩みそうになった。
「ホムラちゃん、本当にありがとう」
「私は……何もしてないよ。何も出来なかった」
──そしてきっとこの先も、私は何も出来ない。
言外に添える言葉が、私を陰鬱な気持ちに連れ戻す。
「うーん。そうなの? ホムラちゃんもさ、早く大人になれるといいね!」
暗い影を落とす私を見て、それでもアゲハは無邪気に話しかける──私を気遣って、明るく話しかけてくれる。
「大人に?」
「うん、なんだかよく分かんないんだけどね、『成長因子なんかなくても、もしかしたら大人に成れるのかもしれない』って、アリスが言ってたの」
今度こそ本当に、涙が溢れた。堪えきれない水滴が、私の頬を伝っていく。まるでコップの水が崩れ落ちるように、表面張力が決壊するように──私の感情が流れ続ける。それは不可避の喜び。それは不可避の哀しみ。
「え、え? ホムラちゃん? え、ごめんね。アゲハ何か、ひどいこと言っちゃったかな。 それとも、何か悲しいことがあったの? ねぇ、ホムラちゃん……」
急に泣き出した私を見て、アゲハが困惑の面持ちで取り乱している。私の視界を遮る水滴が、その様子さえもぐちゃぐちゃに歪めていた。この心臓が身勝手に暴れ回る中で、精一杯に冷静を取り戻そうと藻掻く。この手が自然に、アゲハの頼りない肩を掴んでいた。小鳥が大海で出会った止まり木のように──溺れる者がわらにも縋るように。
「違うよアゲハ。私は大丈夫」
「え、でも──」
「悲しいのも、苦しいのも、私じゃないんだ。すまない、泣いていいのは私じゃないのに」
悲しいのも、苦しいのも、全て彼女たちだ。世界の上澄みから取り残された──取り零された彼女たちだ。アリスの成長を心の底から祝福してやれないこの世界は、やはり間違っている。
「ホムラちゃん、みんな大変なんだね。そういうふうに、テラくんも言ってたよ。あ、そういえばテラくん最近見てないけど──」「──え?」
「こないだから見てないの。ホムラちゃん、テラくんにどこかで会った?」
「違う、そこじゃなくて──アゲハ、テラが何を言っていた?」
アゲハの話を遮って──あるいは遡って、私は問いかけた。
「えっとねぇ……」
アゲハが必死で、思い出すような素振りを見せる。その間に、私は少しでも平然を保とうと努力した。いつまでもアゲハの優しさに甘えたままではいられない。加害者の私が、図々しくも悲しみに耽っているわけにはいかないのだ。
「テラくんはね、『皆が苦しいから』って。『皆が苦しいから、ホムラも苦しいから──俺たちで終わらせるんだよ』って」
──俺、たち? 終わらせる?
「あーっ! でもナイショなの」
アゲハは顔を真っ青にして、両手でその口を覆う。
要領を得ない告白を前に、私の時間は完全に停止していた。
何かを掴みかけている。
それと同時に、私の中の何かが最大級の
「どうしよう……。テラくんに怒られるかも……」
アゲハはエメラルド色の瞳に大粒の涙を溜めて、私に背中を向けた。「あーあ」と大きな溜め息をその声に出しながら、これでもかというくらいに肩を落として歩いていく。萎れてしまった翼を、その背中に見た気がした。
結果として、私はアゲハを追いかけることが出来なかった。振り向かせて問い詰めるのは簡単だったけれど、それはとてつもなく卑怯で、アゲハを傷付けてしまう行為だと思ったからだ。
深く深呼吸をして、平常心を引き戻す。暴走しかけたこの思考を、半ば無理矢理に落ち着かせる。推測と憶測に塗れた私は、蜘蛛の糸に絡まった昆虫のようだ。足掻けば足掻くほどに、深く重く絡め取られていく。
それでも──止まれない。とにかく今は、テラに会いたかった。テラに直接会って、彼の口から真実を聞き出さなくてはならないと思った。
ふと、足下の影が三方向に伸びていることに気付く。先ほどアゲハが言っていた通りだ。普段の私ならば、足下の影など気に留めていないだろう。こんなに狭い世界でも、アゲハの世界は
──本当に私は、何も出来ないのか?
私の心が、三つの影のように多重にぶれていく。そうして彷徨う感覚を、永遠のように感じていた。この躰の中に、確かな熱を宿して膨らむ感情がある。それは救い難い悲哀か、耐え難い憎悪か──。
どちらにせよ私は、一度気付いてしまったこの感情に、二度と目を瞑ることは出来ないだろう。一度意識してしまった壁の染みが、次からは無意識のうちに自然と認識されるように。
──この世界は間違っている。
心ここに在らずの講義をしながら、何度もそんな言葉が頭を
──この世界は間違っている。
全てをこの世界のせいにして、偽りの安寧を選んでしまおうか。私は目の前のヒュムたちへ目線をやりながらも、その顔を直視することが出来なかった。
──この世界は間違っている。
いっそ、大声でそう叫んでしまいたかった。そうすればきっと、
私は、どうしてここに居るのだろう?
愚かしくも、馬鹿馬鹿しくも、どうして戻ってきてしまったのだろう。
ここはあの夢の終着点。
私は何をしている?
こうして問いかけるのも、もう何度目になるだろうか。
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