Absolute01

【凱旋──流れる日々は降り積もるけれど、私は未だ真実の麓】

EP01-01





「ニャニャニャニャニャニャニャニャニャッ!」


 けたたましい猫の鳴き声、もとい目覚ましのベルで目が覚めた。右手を伸ばしてその暴挙を止めようとしたものの、私の右手はブンブンとくうを切るばかり。

 一瞬、あの夢のせいで背丈が縮んだのかと思いかけて、そんなわけはないだろう、とすぐに思い直す。大方ごろごろと寝返りでも打って、知らぬ間に目覚まし時計から遠ざかりでもしたのだろう。


 リーチの足りない私は、頭の下でくたびれた枕を掴み、そこだと思われる方向に放り投げてみた。ドムッ! という鈍い音が上がり、猫の顔を象った目覚まし時計が大人しくなる。

 予想以上の派手な音に心配になり、「いつも枕を投げつけてごめん」と心の中で謝罪の言葉を呟く私。


 人類の科学がどれだけ進歩しても、『枕と目覚まし時計と低血圧女子の関係』は永遠に続くのだろう。寝ぼけまなこにしてこんな発想に辿り着く私は、もしかしたら哲学者に向いているかもしれない。


 ──ああ、それにしても頭が重い。


 あの夢の中を浮遊した後は特にそうだ。部屋中に濃い霧でも立ち込めたかのように、視界の隅がぼんやりしている。半身を掛け布団にくるまれたままの私は、重くて仕方のない左右の目蓋が閉じないよう必死にあがいていた。

 ここで睡魔に負けてしまっては、ネコ型目覚まし時計が無駄死にということになってしまう。といっても意外と丈夫なあのネコちゃんは、もう三年くらい生き続けているのだけれど──。


 「二度寝だけは絶対にダメ」と自分に言い聞かせながら、何とかベッドから這い出ることに成功した。ふらふらと姿見の前に立つ自身の姿を眺め、寝癖だらけの頭に唖然とする。

 好き放題に散らかった赤い髪を、手っ取り早くいつもの状態に戻そうと、シャワールームへ直行する。その途中で、パジャマと下着はそそくさと脱ぎ捨てた。


 ノズルを捻る前に、昇圧剤入りのキャンディを頬張るのも忘れない。万能補完薬ケミカルサプリメントの一種であるこのキャンディは、寝起きの血圧と血糖値の変化を理想値に近付ける効果がある。


 一向に進展する気配のない、『枕と目覚まし時計と低血圧女子の関係』とは違って、『常に時間との勝負である低血圧女子の朝とキャンディの関係』は極めて良好だ。信頼出来る最高の相棒パートナと呼んでも過言ではないし、なんならこのキャンディを結婚相手に選んでも差し支えないだろう。

 くだらない冗談を頭の中に思い浮かべながら、自分の中で少しずつエンジンがかかっていくのを実感する。温かいお湯のおかげかキャンディのおかげか──あるいはその両方のおかげで、私の中の睡魔は尻尾を巻いて退散してくれたようだ。


 早々にシャワーを切り上げて、適当にタオルドライした半乾きの髪を浮遊型送風機オートメーションドライアで整えにかかる。頭の周りを慌ただしく飛び交う四機の小型ファンの姿から、駒鳥型送風機ロビンタイプという呼称が定着してきた商品だ。

 ものぐさな私は、毎朝の支度をとても面倒に思うけれど、私の友人はこの時間にこそ、女として生まれた喜びを感じるらしい。


『ホムラ、いい? 朝の一時間は、今日一日の出来を左右する戦いの時間なのよ』


 いつだったか、全てを諦めて寝癖だらけのままに出勤した私を見て、ギラついた目でそう語った彼女。あいにく私には自分磨きを楽しむ余裕などなく、友人とはいえその感覚を共有シェアすることは出来そうもない。


 髪の毛の乾き上がりを待つこともせずに歯ブラシを咥えて、片手で携帯端末ワールドリンクを操作する。端末の中から電影照射機能リンクプロジェクタを立ち上げて、洗面台の鏡面へと連動要請トリガを送った。

 連動要請トリガを承諾した洗面台の鏡が、即席のモバイルモニターとして機能する。アナログの投影機プロジェクタとは違って、等倍色素ピュアカラーの鮮明なビジョンだ。しかし鏡に映し出されたのは、達筆には程遠い私の筆跡である。等身大解像度リアルクオリティのせいで、文字の下手さ加減もより一層際立っていた。


 フニャフニャの私の文字たちは、今日一日の私のスケジュールを示している。駒鳥型送風機ロビンタイプ羽撃はばたきによって揺れ動く前髪の隙間から、目を細めてそれらを確認した。


 ──うーん。我ながら読みづらいことこの上ない。


 携帯端末ワールドリンクのフォントを私の筆跡でカスタムしたことに、一寸ばかりの後悔を覚えた。端末からの出力情報が私の筆跡で映し出されているのは、私がわざわざ手書き設定メモリアルをセレクトして、自分の筆跡を端末に記録させているからだ。


 携帯端末ワールドリンク特有の無機質な文字ノンフォントが何となく嫌いで、チュートリアルに指示された文字列をひたすらに書き倒し、つい先日にやっとの思いでカスタムを終えたばかり。

 あいうえおの五十音順に始まり、アルファベットや漢字の部首、果てには読み方の分からない記号や符号まで──。ありとあらゆる文字との格闘の果てに完成したオリジナルフォントたちに、愛着が湧かないと言ったら嘘になる。


 ともかく、多分の読みづらさを孕んだフニャフニャのスケジュールを読み解くと、今日の私の予定、もとい私に与えられた仕事は二つだ。


 午前の部には『外観的歴史確認エティックヒストリィ』。午後の部には『内観的倫理教育エミックモラル』。それぞれに大仰な名前こそ付いていても、大雑把に要約してしまえば、"歴史を学ぶ講義"と"歴史に学ぶ講義"といったところだ。


 そして私は、この二つの講義を受講する側──ではなく講義する側。


 先ほどの夢の光景からおよそ十一年という月日が経過し、二十一歳になった私はとある場所で職員をしている。本当は"職員"ではなく"教員"と表現するべきなのだけれど、まだまだ未熟な身なので"職員"と表現した方がしっくりくるのだ。

 どちらにせよ今日の私は、外観的歴史確認エティックヒストリィ内観的倫理教育エミックモラルという二つの講義をしなければ、社会的に駄目人間ザ・フールの烙印を押されてしまうというわけだ。


 烙印というのは洒落っ気を込めた比喩で、蓄積すれば実質的な生体管理制約ペナルティを発生させる累積型刻印イエローカードのことを指す。

 累積型刻印イエローカードは、各々おのおの携帯端末ワールドリンクの深層部に厳重に記録され、その累積枚数に応じて所有者の携帯端末ワールドリンクの機能を徐々に『非公式化アンロック』していく。更に慢性的な違反者には、実際に肉体の自由を拘束されるなどの生体管理制約ペナルティが科されることもある。


 以上に挙げたように、生体管理制約ペナルティの内容は軽度から重度まで様々だ。携帯端末ワールドリンクの機能に制限がかかるだけでも色々と不便なので、累積型刻印イエローカードを発行されるのはとにかく避けたいところ。


 ──しかし、こうして考えているとあらためて思う。


 子供というものは、親に似てしまうものなのだろうか。本当に不思議なもので、気が付けば母さん(色々な事情があって、『ママ』とはもう呼ばないと心に決めた)と似たような仕事をしている私だった。

 きっとカエルの子は絶対的にカエルであって、トンビは間違ってもタカを生まない。生まないというよりも、生めないのかもしれない。


 ただし、あの頃とは劇的に違うことが一つある。それは今の私を取り囲む社会的環境──すなわち公共的な認識パブリック・システムの変化だ。


 どれだけ努力しても、道徳調和機関ロースクールの教員が背伸びした程度の社会的評価しか得られなかった母さん(その母さんも、今では妄信的な支持者を多く獲得している)の時代とは違い、今の私には二十一歳という年齢からはおよそ考えられないほどの、社会的高評価と高収入が約束されている。あの頃とは違うどころか、あの頃とは決定的に違うのだ。


 毎朝のように二度寝の誘惑と戦っているこんな小娘に、行き過ぎと思えるくらいの高待遇が充てがわれているのは、政府が私の職務を『高度専門職ハイプロフェッション』として『公式化ロック』したからに他ならない。


 政府は、まるでゴミの分別でもするように善悪を選別ジャッジする。こんな言い方をすると批判的意見テロリズムとして裁かれかねないけれど、決して私の感性が間違っているとも思わない。

 政府による検閲を経て認定された『公式遺産ロックアーティファクト』と、政府による検閲に撥ねつけられた『非公式遺産アンロックラビッシュ』。オセロの盤面のように白黒が付けられた現代社会には、正直なところ幾許いくばくかの心苦しさを感じざるを得ない。


 ──そう感じるのも、私がまだまだ小娘だという証か。


 しかしこんな小娘が、"歴史を学ぶ講義"や"歴史に学ぶ講義"を受け持ってしまうのだから、政府の管理体制もまだまだ甘いなと、つい口元を緩めたくもなる。


 さて、時間がない。急ぎ足で支度を整えながらも、片手間に携帯端末ワールドリンクを操作してスバルの呼び出しにかかる。


 スバルは自動走行レベル3までを公式化ロックされた一人乗りの自動走行ポッドだ。安価な料金設定ゆえに内装は至ってシンプルだけれど、レベル3という移動速度が通勤手段として大多数に支持されている。要するに、乗り心地よりもスピードに特化した一般市民向けの自動走行ポッドというわけだ。

 私の職場は都市部から離れた場所にあるため、スバルがビジネスパートナーと言っても過言ではない。


 赤と白を基調とした正規の教員服に着替え、小ぶりのバレルバッグを肩掛けする。最低限の身嗜みと忘れ物の有無を確認した後で、私は早々に部屋を出た。春もまだ浅いこの季節には、膝上丈のタイトスカートが薄ら寒く、合成繊維ナノ・ベルベットで出来たジャケットが欠かせない。


 待ち時間ほぼゼロの自宅ドア連動型エレベータに乗り込み、地上三十六階から高速で下っていく。エレベータが地上に着くまでに、すっかり乾ききった赤髪を手際良く結い上げ、極めて常識的な髪型ポニィテイルを作った。当たり前だけれど今の私は、前髪が変なふうに切り揃っていたりはしない。


 人工的な緑に彩られた共用空間パブリックホールを足早に抜けて、ポッドの入り口をフルオープンにして待機するスバルへと乗り込む。携帯端末ワールドリンク操作盤ネットワークソケットに近付け、目的地の登録と代金の支払いを同時に済ませた。


 胸を撫で下ろしながら時刻を確認すると、意外にもまだ余裕がある。そうはいっても、比較対象はあくまでいつもの私でしかない。そのいつもがあまりにもギリギリすぎる私は、やはり急いで正解だったと結論付けるのだった。





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