残悔のリベラル -under the "in the sun"-

五色ヶ原たしぎ

──以下に残悔の記憶──

【濤声──鳴り響く優しい声も、今の私には役目を終えて】

EP00




 黄昏。今日も忘れずに一日の役目を終えた太陽の赤味が、メタリックな街並みに灯す優しさ。規則正しく整列する、鈍色の強化ガラスに反射された光の燃えかすが天空まで届き、俯瞰する私の目を射抜こうとする。


 地上の喧騒から逃れ、やっと手に入れた遥かな高み。その孤高を奪おうと乱反射する光線ラインを、優雅に旋回して避け回る私。七色の発光プリズムに目を細めながら、地面すれすれまでの急降下。そこにある極限は、重力から解き放たれる恍惚。


 翼をひるがえし、軽やかに急上昇。再び俯瞰すれば、見渡す限りを覆い隠す銀色のビルたち。米粒大の人々が奏でる眠らない街の喧騒と、複雑に渦巻くビル風の喧騒のまにまに、ふと想う。


 ──大空に混じった私の躰は不純物だろうか。


 無数の風が逆巻いて、この体躯を四方に激しく揺さぶった。思いのほか強く吹きつける旋風つむじかぜに、両翼の感触を確かめながらほんの一息。心音の乱れを感じたのも束の間、穏やかな安堵感が私を覆っていく。


 そう。

 どんな突風に見舞われても、怯える必要などない。

 とっくに気付いている。なのだと。


 これはいつもの夢。覚めるまでは、飛べる。

 もしくは、あの部屋を覗きこむまでは──。


 鳥になった私の双眸そうぼうはやがて、自分の意思とは無関係に一つの窓枠フレームを探し始める。無限のように立ち連なるビルに並ぶ、無限のように連なる幾つものウインドウ。間断なく繰り返す幾何学模様の中であっても、私は目指すべき輪郭をすぐに見つけられるはずだ。


 これは見慣れた繰り返しであり、使い古されたシナリオなのだから。

 早ければこの瞬間、遅くとも五秒以内には──ほら。


 一つだけ補足しておくと、夢の中とはいえ特別に目が良いってわけじゃない。それでも見つけられない方が不思議なくらいに思う。お目当ての窓枠フレームは私をいざなうかのように、高貴にして清廉な白金はっきんの輝きを放って、それでいて迷子の子供みたいに寂しそうにしているのだから。


 予感。そんな生ぬるい感覚を超えた確信の中で、発見することが約束されたウインドウへと目線を向ける。


 徐々に焦点を絞り合わせると、私に呼応するように窓枠フレーム自体が存在を薄めていった。半透明を経てやがて消え去るそれは、『おいでおいで』と手招く何者かのようで──やはり、私に見つけられるのを待ち望んでいたのだ。


 ぴたり、と風の止まる音。存在しないはずの音を私の耳が捉えた。

 この瞬間、私の両翼からは存在の意義が失われる。


 吸い込まれるようにして覗きこんだ部屋の中には、清潔で簡素な白いベッドがあって、およそ部屋の半分を埋めていた。無駄な物の何一つない無機質な部屋には、生活感などという言葉は何処にも見当たらない。

 ──思い出のフォトグラフの一枚もないのかしら?

 躊躇ためらいもなく部屋の中へと飛び込んだ私は、突拍子もない問いかけを頭に浮かべている。


 でも何故だろう。理由など分からないけれど、私の中で少しずつ、哀しさのような寂しさのような、静かで冷たい感情が強まっていくのが分かる。波紋のように広がっていくその感情は、今さっきまで眺めていた銀色のビルの群れに似ていた。名付け難いメタリックな感情が、私の心をひんやりと冷やしていく。


 前方をあらためて見やれば、白いベッドには美しい女性が横たわっていた。ありがちで冴えない形容しか出来ず、申し訳なさを感じる。しかしながら私には、『美しい女性』というありふれた表現こそが、その女性に最も相応しい誉め言葉なのではないかとさえ思えるのだ。


 やわらかくて、あたたかくて、けれども少しだけ疲れた笑顔。腰まで伸びたブロンドの髪は少し乱れて、その一部があさっての方向に跳ねていた。完璧な調和などそこにはないのに、切り取られた一枚の絵のように完成された姿。


「心配しないで。すぐに元気になるわよ」


 ベッドに横たわったままで首だけをこちらへ向けて、ふいに女性が話し始めた。口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。彼女の視線は私へと向けられていた気がしたけれど、それはただの偶然に過ぎないはず。

 思わず息を呑んで、真正面から彼女を見据える。何処までも整った顔立ちに、私の心はそのまま吸い込まれてしまいそうだった。なんだか怖くなった私は、たちまちのうちに目線を逸らす。


 彷徨さまよう私の視線は、女性の左腕に留まった。白くてか細い腕のラインは、どう見たって痩せすぎだ。綺麗だけれど、魅力的だけれど、見ているだけで心配になる、そんな左腕。目線で腕の先を辿っていくと、体温を感じさせない蒼白の手のひらに辿り着いた。そしてその手のひらを、寂しい目をした少女が両手で握っていることに気付く。


 その存在に、どうして今まで気が付かなかったのだろう。ベッドの横に腰掛けた赤髪の少女。少女はまだ小さな両手を二つ合わせて、女性の左手を強く握りしめていた。まるで、指の隙間からこぼれ落ちようとする、水や砂を必死に塞き止めているみたいに。


『ママ』


 私の口元から言葉が漏れ、その二文字が赤髪の少女の声とリンクした。完璧な二文字のユニゾンの後に、かすれ声にも似た少女の泣き声が病室に響く。


 その刹那、一瞬で理解した。

 あれは、私。

 


 夢。夢。夢。

 祈りにも等しい感情で、私はもう一度強く意識する。


 これは夢。夢という名の、思い出。変わることのない、変えることの出来ない過去の出来事。

 記憶の波が私を襲い、幾つもの風景がフラッシュバックする。明滅を繰り返しながら次々と移り変わる場面に、先ほどよりも強烈なビル風に揺られているような錯覚を覚えた。


 絶え間ない目眩と、揺るぎない回帰。

 私の目の前には、見慣れた無機質な部屋。


 生まれながらの赤髪は私のトレードマークだ。ベッドの横に腰掛けた少女は、まだ十歳の頃の私。よく見ると、額にかかった前髪が変なふうに揃っている。

 そう、たしかこの日の私は、道徳調和機関ロースクールで同じクラスに通う男の子にからかわれたのだ。子供ながらの無遠慮さで、大した悪気もなく、「前髪が長すぎてオバケみたいだ」と。

 その当時、変に色気づいて思春期の入り口に居た私は、家に帰るなりすぐに鏡面台の前に立ち、深い考えもなく前髪を切り揃えた。

 工作バサミによる取り返しの付かない一太刀を二回、三回と重ねた後で、鏡の中の私はどうしようもない前髪をして、どうしようもなく青褪めた表情を浮かべたはずだ。


 その後いつものように先進医療機器設置機関メディモルへママのお見舞いに行くと、私の前髪を見たママはお腹を抱えて笑った。「誰もが一度は通る道よ」、とか、「それはそれで可愛いんじゃない?」とか何とか言われた気がする。

 恥ずかしさに赤面しながら、うっすらと涙を浮かべる私だったけれど、久しぶりに屈託のないママの笑顔を見ることが出来て、満更でもない気分で帰路に就いたのを覚えている。


 私の前髪と引き換えに、少しだけ元気を取り戻したママ。

 そう、この何処までも美しい女性は、消え入りそうな痩せ細った女性は──大好きだった私のママだ。


 夢と、記憶と、思い出とが交差する不思議な感覚。大好きなママと、変な髪形の私と、鳥になった私。ママの優しさと、甘え足りない私と、忘れられない私の、三重奏。


「本当は、ママみたいに綺麗なブロンドの髪が欲しかったの」


 幼かった私は、強がりの混じった声色でそう伝えた。ママは左手を私に弄ばせたままで、右手でその頭の上を優しく撫でる。十歳の私は、鳥になった私の目の前で瞳に涙を溜め続けた。


 でもそれはきっと、本当はきっと──気に入らない赤い髪や、変に切り揃った前髪のせいじゃない。


 明滅。同じ病室のままだったけれど、場面が切り替わった感覚がたしかにあった。液晶のチャンネルでも変えるように、やすやすと時間軸を飛び越えて──今そこに横たわるママは、更にやつれてしまったように見えた。けれどママは、少しも変わらぬ柔らかな口調で話し始める。


「ママはね、たくさんの人の前で、たくさん人のためになる講義をしたの」


 いつまでも聞いていたかった穏やかな声。

 それは闇夜に押し寄せる波の音みたいに、私の内側に心地良く響いた。


「……どんな講義?」


 泣き声の私がママに尋ねた。必死で装った気丈さの裏側に、恐怖にも似た感情が見え隠れしている。


「世の中には神様なんていません。変な宗教や神様を信じて、大切なその身を滅ぼさないようにね、って」


 唐突とも思える話を、ママは優しい笑顔を崩さずに説明してくれた。小さな私は、時折大袈裟に頷きながら、その説明を黙って聞いている。難しくて不思議な話を、せめて少しでも理解しようと、何度も何度も執拗に頷く姿。


 十歳の私の視線は、ママの笑顔に吸い込まれたままで動かない。


 けれど、鳥になった私の中には、どうしようもなく濁った嫌悪感が広がっていく。

 ひんやりと冷えきった私の何かに、じっとりと嫌な感情が纏わりついてくる。


 安堵と嫌悪を、永遠の矛盾のように内包する。

 ただそれが出来れば、一体どれだけ楽になれるだろう。

 粘着質な闇に濁る私の視界。

 大好きなママの、大嫌いな部分。


「だからね、政府の偉い人が、ママを認めてくれたの。ママの病気をね、優先的に治してくださるのよ」


 ママは両手で私の頬を支えると、両目をじっと覗き込んだ。そしてまたあの優しい笑み──柔らかな声。

 鳥になった私は、冷ややかな目線でママの優しさを眺めている──睨んでいる。


「だから大丈夫。ママは元気になって、ホムラと同じお家に帰るわ」


 ママはそう言いながら、小さく拳を握って控え目なガッツポーズを作ってみせる。そんなママを見て、十歳の私は大声を上げて泣きだした。流れ出ることを許されたそのしずくは、留まることを知らずにみおを描く。

 良く分からないけれど、本当は理解出来ないけれど──大好きなママが家に帰ってくる日が来る。子供だった私は、子供なりにそう理解したのだ。


 子供ゆえに、そう理解するしかなかったのだ。


 そして夢の中に迷い込んだ私は、いつまで経っても傍観者のまま。部屋の片隅で羽を休めながら、白んだ気持ちでその光景を眺め続けているだけだった。


 私は知っている。ママが二度と帰ってこないことを。

 そしてこの先の私が、『ママ』と呼ぶのも嫌になるくらい、『ママ』のことを嫌いになってしまうことも。


 消灯。ふいに暗転する場面。私の夢はいつもこの展開。

 決まった街並みを繰り返して、決まった台詞を繰り返して、ママの優しさを繰り返して、私の涙を繰り返して──。


 次の場面は、あの草原だ。

 遅くとも五秒以内には明転する。遅くとも五秒以内には──ほら。


 降り注ぐ陽射しに慈悲はない。真夏の焼きつける太陽と、大地を駆け抜ける湿った風。私を包むのは、噎せ返るような夏草と土の匂い。

 幼い私とママは、巨大な建造物の前にいた。広大な大地に腰を下ろした、不自然な人工物が不気味に聳え立っている。


 夢に迷い込んだ私は、大地に這うほどの低い視点で、二人を眺めていた。何を思うこともなく、何を叫ぶこともなく、ただただずっと静観しているだけだった。


 見慣れた夢のクライマックスが始まる。

 そこには何の高ぶりもなく、そこには何の変容もない。

 いつものように、いつものように。

 私はママを、失うだけだ。

 大嫌いなママを、失うだけだ。




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