EP05-02





 躰中のバネを全て使って、ベッドから跳ね起きる。悪夢としか形容しようのない夢からの寝覚めの悪さに苛まれながら、動悸が収まるのをじっと待つ。背筋を這う嫌な汗が、肌に引かれた赤黒いマーカーラインを連想させた。悪夢の余韻と共に慌てて上着を脱ぎ捨て、上半身を確認する。大丈夫だ。何も無い。何も無い。何も。


 心に溜めた陰鬱や憂鬱を濃縮して、体現したかのような夢だった。昨日というたった一日の中に、あれだけ色々な出来事が詰め込まれていればパンクもしよう。脂汗を額に浮かべたままの私。その脳裏に浮かんだのは、情緒不安定なテラではなく、はたまたアリスの泣き顔でもなく、プラネタリウムの下で聞いたゲントク老師の言葉だった。


『心を壊して去っていく者が後を絶たない』


 その言葉の重さが、今さら私に伸し掛かる。せっかくの休日だというのに、どんよりと重く暗い朝。


「アリスたちは、毎朝どんな気分だ?」


 虚しい問いかけを独りごちながら、カーテンを開けて太陽の位置を確認した。どこか原始的なその行動には、学ぶべき教訓のようなものが潜んでいるかもしれない。


 私の休日にネコ型目覚まし時計の出番はないし、いつもの私ならば、低血圧を言い訳にしてそそくさと二度寝してしまう場面だ。しかし今日は億劫な気持ちを振り払って、もそもそと身支度を始める。数少ない友人との約束を果たすために。


 その友人──すなわちイマリは、私がここで二度寝をしたり、あるいは寝過ごしてしまっても、このマンションまで迎えに来るだけの気力と行動力を備えている。イマリから溢れ出るその生命力バイタリテイを、少し分け与えて貰いたい気分だ。


 何事にも卑屈で、事あるごとに懐疑的な私の思考とは真逆で、イマリは常に直線的で、明瞭に物事を捉えることが出来る。煌々と輝く彼女の振る舞いは、いつも太陽のようだ。かといって私が、月のようなたおやかさを備えているかというと、そうでもない。


 イマリならば、アリスに何と言ったのだろう。

 そもそもイマリは、何故こんな仕事をしているのだろう。

 それを言い出したら、私もやはり同じなのだけれど──。


 ぐるぐると回る思考の渦から、逃げるようにして家を出た。






 地上八十階のオープンテラスからは、"004"が刻印された広報用球体型全面液晶イクリプスビジョンを斜めに見下ろすことが出来た。その絶景が人々の虚栄心を満たせば、提供される料理に味わいの変化でも起きるのだろうか。もたらされる付加価値以上に、料理の値段は跳ね上がっているのだろう。可愛げもない思考に囚われる私。


 レストランの入り口には、大層な大きさをした天然流木のオブジェと、歴史的価値を持つであろう希少な振り子時計ペンドュラムが飾られている。振り子時計ペンドュラムを包む木箱は深みのある飴色に変色し、残滓収集家アンティークワイナリーを唸らせるような重厚な迫力を備えていた。

 箱の中心部では、右へ左へと揺れる振り子が今も時を刻み続けている。水晶時計クォーツが普及する以前にはこのようなアナログ時計が主流だったらしいけれど、怠惰な性分の私でさえも、こんな仕組みでは頼りないなと眉をひそめてしまう。


 とにかくやたらと内装が豪華なこのレストランは、"庶民様お断りVIPテラス"の雰囲気を全体から醸し出していた。近場だというのに、訪れたことがないわけだ。


 イマリが選ぶ店といったら、大抵がこのような高級店ばかりなので、私は昨晩の内に黒を基調としたカジュアルドレスを準備していた。しかし今朝の悪夢の中で漆黒の風船に蜂の巣スプラッタにされてしまった私は、手持ちの衣装の中から急遽白いパーティードレスを選んできた。暫くの間、黒い服や赤いアクセサリーは敬遠することになると思う。


 真っ昼間から気合いが入りすぎかなと、不安に思っていたが杞憂だった。このレストランのレベルなら、もっと着飾ってきても良かったくらいだ。内装全体から漂う高飛車な空気アウラは、イマリからの嫌がらせに違いない。もしも普段着ルーチンで来ていたら、約束を破ることも厭わずに愛しのマイルームへときびすを返していただろう。


 席に案内されてからも、そわそわとまるで落ち着きのない私。スタッフの方は、まるで中世の執事と見紛うような正装を、上品な動作と巧みな振る舞いで着こなしている。

 とある男性は、口角を常に一定の角度で持ち上げていた。いつも仏頂面と言われる私でも、訓練すればあのような笑みを浮かべることが出来るようになるのだろうか。例えば今更違う職業に就いたとして、最低限の人間関係を構築し、維持していけるくらいには──。


「やほ。おまたせ」


 そんなことを考えているとイマリがやって来た。陽気な挨拶と共に、私の向かいへと腰掛ける。くねくねと芸術的(もちろん私にその価値は分からない)に湾曲した足を持つ、やたらと重い椅子だ。


 にこやかなイマリに、これ見よがしに携帯端末ワールドリンクを突き付ける。つまり、現在時刻を強調してみせたのだ。二十分以上遅刻しても、一切触れようとしないのがいかにもイマリらしい。私も私で、イマリが遅れてくることは想定内だったので、あくまでもポーズだけの嫌味である。


 イマリは派手過ぎず、それでも"決して安物ではないぞ"と力強く主張する艶やかな生地のキャミソールに、上品な透け方をする薄手のカーディガンを羽織っていた。そのカーディガン越しに透けて見える彼女の肩が、同性の私から見ても妙になまめかしい。胸元と手首には、嫌らしくない大きさのジュエルが埋め込まれたアクセサリーが光る。ブロンドの髪をトップで留めている髪飾りにも、さり気なく幾つかのジュエルが散りばめられて輝いていた。「さてさて、何を食べようかなぁ」といった様子で、嬉々とした表情で革張りのメニューを眺めるイマリ。


「あのさ、イマリ。前から言いたかったんだけど」

「ん? なぁに? あ! これおいしそー」


 そのメニューの中から"子羊の何とか"を指差して私に見せるイマリだったけれど、私から見れば向きがあべこべなので、その一瞬では解読出来ない。


服装による礼節ドレスコードが必要な店なら、これからは予め教えて欲しいんだけど」

「なんだ、そんなこと? 大丈夫よこの程度の店。あ、これもおいしそーだ」


 違うメニューを指差してはしゃぐイマリは、子供のように瞳を光り輝かせている。彼女を視線でいさめる私は、まるで保護者みたいだ。"この程度の店"などと、不用意に声に出すものじゃないし、他のテーブルに座るお客さんの身なりや雰囲気を見る限り、"この程度の店"などではないことは明白だった。


「でもほら、もしも私が流行はやりのサンライトグリーンに身を染めてきたら、イマリまで笑い者だ」

「大丈夫大丈夫。ホムラはやるときゃやる女よ」


 引き続きメニューと睨めっこを始めたイマリは、私の方をちらりとさえ見ようとしない。よっぽどお腹が空いているのだろうか。そうでなければ、真剣に訴えている私は惨めだと思う。イマリのいい加減な褒め方には、まったくと言っていいほどに感情が籠もっていない。そもそも私にとっての"やるときゃやる"というのは、予約したレストランに相応しい服装を選べるかどうかという程度の話のようだ。


「あ、すいませーん。こちらを二つ下さい。それと食後にエスプレッソを二つ」


 イマリは執事風のスタッフの一人を気安い感じで呼びつけ、手早くオーダーを済ませた。あろうことか私の分まで。


「……まだメニュー見てない」


 物言いを付ける私を一瞥し、ぷっと吹き出す独裁者イマリ。


「どうせ何でも良いんでしょ? ホムラってあちこち頑固なくせに、食べ物についてはこだわりゼロじゃん」

「……むむ。私にもメニューが見たい時はある。食堂のランチだって、AかBかたまには迷う」


 私は目を細めて、眼前の独裁者様にこの身の不遇をアピールした。


「私だって、本当はエスプレッソよりも甘いフルーツジュースが良いんだから、これでおあいこでしょ? 飲み物の好みはホムラに譲ったんだから」

「ん、そうだな。DUMの中でならともかく、食後に濃い目のコーヒーは外せない」


 そう言ってしまってから、でもそれは別々の飲み物を頼めば良かっただけではと気付く私。しかし時すでに遅し。完全にイマリの掌の上で踊ってしまった。


「でしょ? そうだと思った。さすが私」


 私をやり込めたイマリは、鼻高々と勝利宣言をする。平民の私は、小さな溜め息と共に平伏した。


「完璧なデートプランにお手上げだ。次の彼氏はイマリにするよ」

「ええ、是非ともそうして下さいな」


 イマリと過ごす時間は、終始イマリのペースだ。彼女と出会った時から、ずっと変わらない私たちの関係。そして私は少なからず、この距離感を気に入っているのだ。






「ねぇホムラ、休みの日に付き合わせてごめんね」


 出された料理(真っ昼間だというのにちょっとしたコース料理だった。お世辞抜きに美味しかったけれど、値段を見ていないので評価が付け難い)を平らげ、食後のエスプレッソを待つ間にイマリが言った。


「たとえ社交辞令でも、そういったことは『ごめんね』という表情を浮かべて言ってほしいな」


 それとも大根役者なのだろうか。そうだとしたらエキストラにもなれないレベルだ。


「あはは、バレた? 実は何とも思ってない」


 ぺろっと赤い舌を出して、無造作に頭を掻くイマリ。せっかく綺麗にセットされたヘアスタイルが乱れてしまうと、ちょっとだけ心配になった。


「いいんだ、私も今日は一人で居たくなかった」


 社交辞令ではなく、嘘偽りない本音を述べる。あのまま家に閉じこもっていたら、禅問答のように出口のない問いかけを繰り返していたことだろう。


「ふーん、そーなんだ。言えば? 今言わないと聞いてあげないよ?」


 ふんふんと上機嫌に鼻を鳴らしながら、イマリが柔らかな眼差しを向ける。遠慮のない視線で、私の表情をまじまじと観察する彼女。そんなにじっと眺められたら、大抵の男性はどぎまぎしてしまうだろう。


「いいよ聞かなくて。話したくなったら、勝手に話す」


 そう、これは私の問題だ。私のお節介から派生した、私自身の問題──とはいえ本当に抱えきれなくなった時には、この美しき独裁者を巻き込んでやろうと、密かに企む私が居るのも事実。イマリいわく"友達"らしいから、きっとそれくらいは許してくれる。


「いいねぇ、ホムラのそうゆうとこ、好きだわ。ホムラ、好きよ。次の彼氏はホムラにしたいくらい」


 昨日に引き続き、イマリの「好き」がまた飛び出した。イマリは事あるごとに、私に対して「好き」という言葉を使う。別の言い回しがあるのに、わざわざ「好き」というあたりがいちいち小悪魔ティーザーチックなのだ。どれだけ私に面映おもはゆい気持ちをさせれば気が済むのだろう。


「じゃあ彼氏カイトさんと別れたら教えてくれ」


 意地の悪いイマリに、私は意地悪くそう答えた。目の前の小悪魔ティーザーには、カイトさんという名のれっきとした彼氏が居る。それにその仲は順調なはずである。

 私たちから見て十歳近く年上のカイトさんと、私を交えて三人で食事をしたこともある。その際、カイトさんは私以上にイマリに振り回されていて、同情の念を禁じ得なかった。じゃじゃ馬イマリの手綱を引ける男性が居るものならば、いつかお目にかかってみたいものだ。


「おっけ。優先予約を確かに受け付けたわ。でさ、ホムラ」

「──まぁ、なんかあるんだろうなとは思ってるよ」


 気紛れで独裁者なイマリさんは、ここに来てやっと本題を切り出してくれるようだ。私は決して察しが良い方ではないが(というか完全に悪い方)、中央管理室コア・ルームでランチの誘いを受けた時点で、何らかの予感はあった。


 イマリはいつも自由奔放ではあるけれど、決して意味なく行動を起こすようなやつじゃない。彼女の方からランチに誘ってくるイコール、恋愛相談やら人生相談やらがセットだと考えるべきなのだ。このような勘繰りを正直に伝えればイマリは、「友達とランチ行くのに理由が要るわけ?」と言って機嫌を損ねるのだろうけれど。


「私さ、昨日見ちゃったんだよね」


 周りのテーブルを無造作に見渡してから、急に小声になって話し始めるイマリ。その一連の動作は、「私たち今から内緒話をしますよ」と周りに宣言しているようでさえあった。


「見たって──何を?」


 イマリにつられて、私も小声になる。


「ほら、ホムラが七光りを使って、ゲントク老師と楽しくお喋りしている時よ」

「まだ言うか……いいやもう、七光りで」

「その七光り会談にさ、私が途中参加するほんの少し前よ」

「イマリにしては回りくどいな、何を見たの?」


 普段、ストレートかつダイナミックな物言いしかしないイマリの突然の回りくどさに、さすがにやきもきしてしまった。イマリは今一度、周囲のテーブルを入念に見渡してから、私の耳元で囁く。


神奈木かんなぎコトハよ」





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