EP10-07
9年前のある日、複数の
しかし奇怪なことに、トーマ博士はそのまま投降した。彼は自らの
"
実を言えば、私はその瞬間もDUMの前に佇んでいた。生々しい芳香を放つ深緑の景色に埋もれ、益体もなく母さんのことを思い出していたように思う。
だから、実感に欠けるのだ。私が去りし日の思い出に囚われる中、
噴煙を上げる各地の
「ホムラも知っているように、
途端にテラが芝居がかる。
「トーマ博士は、世俗を捨てたかったのか? 何を想ってその結論に辿り着いたにせよ、彼が仕出かしたことはどう受け止めても自罰的に思える」
何を想って──とはあまりにも他人事だろうか。母さんを失ったことで、トーマ博士の中にも何らかの痛みが残った。私はせめて、そう信じたいのではないだろうか。『裁かれたいがために罪を犯す心理は、決して破綻してはいない』──いつかのサヨさんの言葉を思い返しながら、テラの返答を待つ。
「ははは、自罰的か。なるほど、トーマがそのくらい内向的なら良かったね。彼は世俗を捨てるどころか、世俗を手に入れたかったんだよ。トーマの狂気は、引きこもるどころか放射状に拡散している──今この瞬間にも、トーマの狂気は世界中に満ち満ちているのさ」
私が怪訝な表情で首を傾げると、モニターの画像が切り替わった。映し出されたのはシンプルな
「ホムラ、これは
見渡す限りの
「これは
テラの話に言葉を失うのは、これで何度目だろうか。
雄弁な口調でテラが告げる。
「
テラが言っていることは、まるでデタラメで──。
私は思わず失笑する。しかしテラは、歯牙にも掛けようとしない。
「信仰や宗教は完全に抹殺され、死に体だった哲学は再生され、恣意的な歴史が随所に挿し込まれた。多くの
私は、笑い続ける。
いつしかその笑いは──乾いていく。
「ホムラ、
話の内容が、
だけど、だけど──だからといって。
私はテラの言葉を疑う理由を持たない。
信じられないような真実なら、すでにこの身に起こっていたのだから。
「テラ、詳しく答えろ──この世界の中で、果たして何が本物で、何が偽物なんだ」
「本物と偽物か……。困ったな、ホムラはとても難しいことを尋ねるんだね」
私が訥々と問うと、狼狽にも似た感情を声に忍ばせてテラは言った。
「例えばサヨもイマリも、何かしらの哲学思想に基づいて行動してるだろ? 彼女たちの思想のうち、何処から何処までがトーマの干渉によって意図されたものなのか、それは俺にも判断しかねる」
「──なぜ? その詳細をこの
「ううん、逆だね。この世界には、情報が溢れすぎているんだよ。人々は物心ついた時から、
テラの口から放たれた事実は、世界中の人々の
「宗教どころか、
窮屈な椅子の上で、私は深く項垂れた。
足元に穿たれた深淵の穴が、私を手招いている錯覚さえ覚える。
しかしテラは、私の不安を拭うように「それは違う」と断言した。
「人間はそんなに簡単なものじゃないさ。事実、サヨのような人間が現れた。そしてあのサヨが、ホムラみたいな跳ねっ返りに自らの
「──まったく、誰が跳ねっ返りだ」
私が顔を上げると、いつの間にか
「トーマは宗教が大嫌いだったから、宗教家に関しては洗脳とかされててもおかしくないけどね──それよりかは
「ああ、そうか。母さんも言っていたな──『世の中には神様なんていません』と。あれは狂人からの受け売りだったわけか」
「その狂人の複製体に、『私がお前を
テラの軽口に、頬が熱くなる。代替知能というものは、そんなにくだらない出来事まで
「──沓琉トーマは、
テラの話題から逃げるようにして、私は最も肝要な質問を投げる。私たちの尊厳を踏み躙ってまで、
「トーマは現在進行系で実験に没頭してる。それは人間の本質を探るための思想実験だよ」
テラが苦虫を噛み潰すような顔をする。いつも飄々としたテラがこうして嫌悪感を
「108のエリアに与えられた108のジレンマ。108体の
驚きよりも得心が
「
たっぷりと皮肉が込められたテラの言葉が、頭の中をぐるぐると回った。その
「
吐き気を堪らえながら、私は言う。
「そのそれぞれのエリアに、私が居るというわけか。それぞれの私がどんな結論を導き出すのか、神奈木博士が観測していると」
テラは大きく頷いてから続ける。
「その通りだ。この思想実験が開始された直後、ホムラたちは
私の気付きに先回りをするように、テラが話し始める。
「驚くべきことに、この9年間エリア間の移住記録はゼロだ。移住どころか、渡航記録さえもゼロだよ。エリア間を跨がれることは、トーマの思想実験にとって一番の妨げとなる行為だ。だからこそ、この一点はかなり念入りに管理されている。エリア間の移動に膨大な手続きが義務付けされているのに加えて、思想や思考の誘導、場合によっては妨害工作もあったはずだ」
「ああ、だから──
私がエリア004に住み続けている事実さえも、それとなく沓琉トーマの掌の上なのか。いよいよ何を信じていいか分からない。
「ここまでくれば、その
神奈木博士とサヨさんの会話を思い返す。確かにその解釈ならば、全てに納得がいく。
「この考えに至らなかったのは、俺の最大のミスだ。俺が順序を誤らなければ、何事もなく終わったものを──結果、ホムラは最悪なカタチで俺たちに巻き込まれてる」
そう言って、テラは肩を落とした。もしも触れられるものならば、私はその背中を力強く張っていたことだろう。
「私を馬鹿にするなよ。巻き込まれたなんて考えたことはない。ただの一度も」
これは元々、私の問題だ。
そして全て、私たちの問題だ。
それは決して108体の私のことじゃない。
人間もヒュムも
顔を上げたテラに告げる。
「テラ──約束してくれ。私たちの
「じゃあホムラ──君は」
「私はその国では暮らせないよ。だってまだ、107人の私が迷子なんだろ?」
縋るような笑顔を浮かべたテラに、私はこうして別れを告げた。
アリスとアゲハのコテージから出て、オートロックを確認する。
世界を疑い続ければ、私はまだ私でいられるだろうかと、暗澹とした憂鬱を掻き分けるようにぼんやりと思った。
「止まって」
背後から、強い声。
それは、私の良く知る声だ。
「二人は今も講義中のはずだけど、その留守中に何してるの?」
振り向けば、イマリの冷ややかな目線。
その手には、真っ直ぐに私を狙う
「答えなさい」
もう一度、強い声。
私は大きな溜め息を吐き出しながら、壊れていく世界を自覚した。
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