【潮解──それでも私は、虚無の筵を歩く】
EP11-01
とにかく距離を詰めようとした私の腰骨に向けて、靭やかな蹴りが放たれる。咄嗟に挟み込んだ私の左腕に重たい衝撃。どうか冗談であってほしいという微かな願いは、その蹴りの鋭さによって瞬時に打ち砕かれた。私の反応を観察するイマリの怜悧な瞳が鋭く光る。
「
「スキンシップで済むと良いけどね」
イマリの金色の髪が、ふわりと揺れたと思った瞬間に視界から消える。私の胸のど真ん中には、左腕で繰り出された掌底がすでに沈んでいた。行き場を失くした空気が、堪らずに肺から逆流する。私が崩折れるよりも早く、流れるような動作で襟首を掴まえるイマリ。体術も護身術も首席卒業の彼女に、
「最近様子がおかしかったから、こっそりホムラを観察してたの」
「はは……私がおかしいのは今に始まったことじゃないだろ」
「友達が道を踏み外しそうになったら、全力で連れ戻すのが友達の役目よ」
「私が道を踏み外す? もう一度言おうか。『イマリに何が分かる』」
「何をしていたのか、簡潔に答えなさい。その内容によっては、私はあなたをサヨさんに告発しなくちゃいけない」
真剣に叱りつけてくれるイマリには申し訳ないけれど、その台詞に安堵した。ここでサヨさんの名前が出てくるということは、イマリが
私の不器用な挑発も、たまには役に立つらしい。
努めて表情を殺す。この安堵を悟られてしまっては、テラやサヨさんのこれまでが全て無駄になってしまう。私たちが警戒すべきは、神奈木博士よりもイマリだった。今さらながらに認識を改めつつ、切り出す。
「イマリ、本当に恥ずかしいんだが──最近、自分のしていることが分からなくなるんだ」
そうだ。イマリから見れば、狂ってしまったのは私なのだ。事実、狂いかけているのだと自嘲気味に思う。コンダクターの重圧に押し潰されてしまいそうな
「気が付くと違う場所に居たり、知らぬ間に時間だけが過ぎていたり、夢と現実の境がなくなって、足元がおぼつかなくなったりもする。アリスとアゲハはそんな私を心配して、何かと
苦しい言い訳だと思う。三文芝居だとも思う。
しかし意外にもというべきか、イマリは私の言葉を疑う様子など微塵も見せず、
「ホムラ──きちんと眠れてる? 眠れない時はうちに泊まりに来ても良いのよ? 何なら私が泊まりに行ってあげる。腕の良いお医者さんも、一緒に探そ?」
うっすらと涙声のイマリが私の頭を優しく抱きかかえると、罪悪感がこの胸をどっぷりと満たした。それと同時に、イマリの優しさに恐怖にも似た気持ち悪さを感じてしまう自分が居る。
どうしてそんなに純粋で居られるのだろう。
「疑ってごめんね。
イマリの指先が、慈しむように私の髪を梳く。それは文字通りの掌返しだった。
私はそういった裏読みをおくびにも出さず、神妙な面持ちを意識して言う。
「情緒不安定で本当にすまない」
「こんな仕事だもの。仕方ないわよ」
こんな仕事なのに、自らの価値観に明確な優先順位を付けられるイマリに心から平伏したい。私を蹴ろうとも殴ろうとも、イマリは自分の世界の天秤を第一に守り抜くのだ。
「──なぁ、イマリにはないのか?」
少しだけ迷った末に尋ねる。歯切れの悪い私の様子に、イマリが「うん?」と続きを促した。彼女の声は、ひどくやわらかい友人のそれだった。
「例えば、そう──それこそあの巨大な水槽の中みたいに、実はこの世界の全てがお膳立てされたもので、私たちの意思さえも、
自分で言い出しておきながら、質問がどうにも要領を得ない。自分の
イマリは驚いたように目を
「ホムラ、私は私の脳みそで考えて、そして私の足でここに立ってるのよ。分かる?」
「あ、ああ……」
満面の笑み。
眼前のイマリに気圧されるようにして、私は半歩
「朝の一時間をたっぷりと使って、私は考える。今までに奪ってきた
「あの言葉は、そんなに壮大な意味を持った言葉だったのか」
「そうよ。私やあなたは、少なくともこの世界において負け組ではないもの。負け組どころか、勝ち組じゃない」
色素の薄いイマリの瞳は、どこまでも澄んでいる。
まるで何でもないことのように、イマリは断言した。
「私は誰かに臓器を捧げたりもしないし、もちろん調理されて卓上に並ぶ
私たちの間には、埋め難い温度差のようなものがあった。それはつまり──深刻さの違いだ。しかしそう感じるのは、偏った
私が逆の立場だったら、暴力行為さえも厭わずにイマリのことを説得出来るか? イマリは自らの天秤が弾き出す答えに頑なでありながら、誰よりも真正面から私と向き合っている。
「イマリ、私は──私には分からない」
この世界を変えたいと願う私は、この世界を生きようと思う覚悟が足りないのか? 自身を貫く気高い彼女のように、全身全霊を持って現実を受け入れようとしない行為は
「この世界の正しさが──
見つけられるわけがない。
この世界が沓琉トーマの悪意の上に成り立っているという真実を知った今、私はこの世界を変えることだけを考えている。
真っ直ぐに私を見てくれるイマリとは、決定的に違ってしまっている。
「ねぇホムラ。9年前のこと、覚えてる? ほら、
不意打ちのように投げられた質問は、願ってもないものだった。
私は食い気味に首肯する。
「覚えてるよ──とは言っても、何の
それは嘘偽りのない本音だ。あの瞬間も母さんを亡くした喪失感に囚われていた私にとっては、
「そっか。確かにそうね。私たちはまだまだ子供だったし。ああ、ホムラは今も子供だけど」
困ったように微笑むイマリを、私はどこか冷めた気持ちで眺めている。
「私はあの時、偶然にもママとショッピングをしていたの。だからトーマ博士の演説を特等席で見たわ」
「私は子供ながらに、とても興味を持った。画面の向こうの
沓琉トーマの闇。
それはもしかすれば──イマリがコンダクターを志すことになったきっかけの一つだったのかもしれない。そんなふうに、私は解釈する。
「でもね、それよりも印象的だったのは周りにいた人たち。だって変じゃない? 決して誰の血が流れたわけでもないのに、まるで世界の終わりでも来たみたいに混乱してるのよ?」
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