EP12-05
「低く身を伏せていろ」
端的な忠告と共に、神奈木博士は右の掌を天蓋に掲げた。するとばちりと──ばちりばちりと
大広間の中空を縦横無尽に走る暴力的な電流が、壁に描かれた宗教画の数々を鮮明に照らし出す。皮肉なことにその中の一枚は、
『──なっ?』
テラの、サヨさんの、ゲントク老師の、そして私の──驚嘆の声が一斉に零れる。続いてぼとりと──ぼとりぼとりと
「サヨさん、すぐに止血しますから」
流血の目立つ部位を選んで強く圧迫していく。私の手の大きさではどうにもならない太腿の部分には、制服のジャケットを脱いで帯状に巻き付けた。これでしばらくは時間が稼げるはずだ。
応急処置の痛みに顔を歪めながら、サヨさんが問いかける。
「あれは──どんな
「神奈木博士は、意外なことに
私の冗談に、サヨさんは目を白黒させた。そして口元だけで笑う──笑おうとしてくれる気遣いが、何よりも嬉しかった。
そうか、サヨさんは神奈木博士の
けれど、知っていたところでどうなるというのだろう。テラの反応を見る限り、
困惑の中で、神奈木博士の
「これはこれは──不思議なこともあるものだ。一体何という名の兵器なのか」
さすがと言うべきか、ゲントク老師はすでに落ち着き払った態度を取り戻していた。胸元から取り出した鋭利な
「爺さん、もうやめろ。そんな原始的な武器でどうにかなる相手じゃない」
「ヒュムよ──こんな老いぼれにも守るべきものがあるのだ」
テラの制止に聞く耳を持たず、ゲントク老師は駆け出していた。最短軌道で繰り出される渾身の一突きが、目にも留まらぬ速さで神奈木博士に襲いかかる。
だからその凶刃は、神奈木博士の胸元をあっさりと捉えた。無言で構える彼女の胸元を、造作もなく確かに突き刺したはずだった。
しかし、老師の手首はぐにゃりと折れ曲がり──からんころんと
痛々しく変形した右手首を押さえながら、「やはりそうなのか」と納得の表情を浮かべるゲントク老師。しかし瑣末なものは視界に入らないとばかりに、神奈木博士は遠い目をして独りごちる。
「もしも私に魂などと云うものがあれば──013や042も救えたのだろうか」
もちろんその言葉は、意味不明だ。
ゲントク老師やサヨさんにとっては、
そんな博士の言葉が、私の胸を深く抉った。
もしも私たちが、この世界が造り物だと最初から
たとえば、行動に魂を伴って──。
世界を識っているのに、何も感じられなかった彼女は。
魂を知ってしまった今、果たして何を想うのだろう。
ただ漠然とした悲しみに駆られて、私の頬を一滴の涙が伝う。
ふと見やれば、テラも同じ様子だった。
未だかつて見たことのない、沈痛な面持ちで神奈木博士を見ている。
次の瞬間──。
神奈木博士は、ゲントク老師の右腕を折った。
次に左腕を、続いて左脚を、折って、砕いて、潰していった。
何の
繰り返される度に、関節が損壊する小気味よい音が上がる。
効率的に、どこまでも効率的に──神奈木博士は、ゲントク老師の戦闘力を殺していく。あるいは、生命力を──。
眼前で繰り広げられる破壊行為に、私とサヨさんは言葉を失っていた。あまりの光景に私たちが唖然とする中──唐突にテラが叫ぶ。
「神奈木コトハ! 殺しちゃダメだ! それは違う。そのやり方をしてしまったら、俺たちはもう戻れない」
「──何故だ? ホムラやお前を救うにあたって、これが最良の手段だろう」
「違うよ。殺してしまったら、俺たちは
テラは、らしからぬ必死の形相で神奈木博士を説得する。遥かな高みに生きる神奈木コトハには、同じ次元を生きるテラの言葉だけが届くのかもしれない。
本当に残念だけれど、私にはテラの言葉の真意が理解出来なかった。おそらくはこの先も、理解してあげることは叶わないだろう。成長因子を残したままの私のカラダは、今この瞬間にも勝手に滅びていくのだから──。
だけど。
ただ──ただ少しだけ。
テラが
テラが自分たちの世界を閉ざそうとしているのは、他ならぬ
「神奈木博士、俺たちに加勢してくれてありがとう。だけど身勝手を承知で、1つだけわがままを言わせてほしい。ここは──ここはどうか、身を引いてくれないか? これからの生き方を議論する時間なら、後から幾らでも作るから──」
私とサヨさんは、神奈木博士の
ややあってから、神奈木博士は小さく嘆息した。満身創痍となったゲントク老師を、丁寧な動作で床に横たわらせてから答える。
「──分かった。魂という概念は処理能力を鈍らせ、判断を誤らせるのかもしれない」
「悲観しないで
「
どこか悲しげな影を落としながら、それでも微笑み合う二人の
「ホムラ──下界のことは私に任せてくれないか? ヒュムたちにも混乱が広がっているようだ。もちろん天語サヨも、それに九流ゲントクの治療も、私がさせてもらう」
「神奈木博士になら、安心して任せられます。ですが──」
その続きを口にするには、大きな覚悟を必要とした。
「神奈木博士、もう良いのですか? その──私を観測しなくても、構わないのですか?」
残酷な質問を投げている自覚は充分にあった。それでも私は、知っておきたかったのだ。神奈木コトハの選択を──その魂が下した決断を。
「ああ、もう良いんだ。その代わり──いつかお前の決断を聞かせてくれ。
やわらかな笑みと、やわらかな声に、私は首肯する。
「約束します。
私は恐る恐る、神奈木博士の胸元へと手を伸ばす──ゲントク老師が辛うじて刻んだ、その胸元の亀裂へと。
そっと指先で触れると、
お互いにもう一度微笑みを交わしながら、私は彼女の亀裂から指を離す。
照れくさそうな表情を垣間見せてから、神奈木博士はサヨさんを抱き抱えた。きっと関節を粉砕されたゲントク老師よりも、失血の著しいサヨさんの方が重傷だと判断したのだろう。
「サヨさん、あの──」
苦しそうに息をするサヨさんへ、私は躊躇いがちに声を掛ける。するとサヨさんは、血の滴る腕を上げて続きを遮った。当然、激痛が走ったのだろう──その表情は固く強張っている。
「ホムラ、ごめんなさい。こんな形であなたを巻き込んでしまったことを、心苦しく思います」
「いいえ、ここは私の職場ですから──それにサヨさんは、私の理想の上司です」
私は努めて明るい声音を心掛けた。その裏側に、暗澹たる気持ちを抱えながら。
サヨさんに謝らなくちゃいけないのは、本当は私の方なのだ。サヨさんがDUMを解体し、ヒュムたちの解放を望んでいるとテラから聞かされていながらも──今の私はそれを望んでいないのだから。
「ホムラ、私はね、
「──え?」
唐突な切り出しに目を見開く私。
「だから偉そうに語らせてもらいます。ホムラ、覚えておきなさい。天語サヨは、信頼する部下の選択に後からケチを付けるようなつまらない人間ではありません」
そう言ってサヨさんは、無理矢理に笑顔を作ろうとした。
私は目の前の女性を、心から尊敬している。
その気高さも、その美しさも、その優しさまでも──。
「サヨさん、行ってきます。
「ええ、いってらっしゃい。大丈夫、あなたには美しい心を持った
その軽口が、何だかむず痒かった。
少し離れた場所では、テラが照れたように頭を掻いている。
私は後ろを振り返らない。
抱えきれないほどの想いを託された私たちは、
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