EP02-03
サヨさんが立ち去った方向にメインガーデンを抜ければ、やがて
いつもならDUM内を周遊する小型走行ポッドに頼る自堕落な私も、今ばかりは自分の足で向かっていた。凛とした歩調のサヨさんを見習ったわけでも、広大なメインガーデンを駆け回るアゲハの元気に触発されたというわけでもない。
しかし空模様はたちまちにぐずつき、
私は自らが選択した徒歩という手段に、早くも後悔を覚えて走り出す。
コンダクターになるためには勉学はもちろんのこと、基礎体力や護身術の試験なども
「ホムラ、どうしたの? もしかして何かの病気?」
左胸のあたりを押さえながら、すっかりいつも以下の速度で歩く私に、陽気な声をかけてくるヒュムが一人。少しだけ青味のかかった
テラは後ろ手を組みながら、私の進路を遮るように躍り出た。興味を隠さない眼差しを
まるで初対面の
「あげるよ。俺の心臓」
テラは右手で自分の左胸を掴む仕草をしてから、戯けた様子で「ぐえっ」と仰け反ってみせた。そうした小芝居を挟んでから、その手を私の前に突き出して
今度のそれは、屈み込むなどといった動作ではない。主人に
私は目を凝らしてイメージする。
「ほら、どうぞ、どうぞ」
「なんだ、今日はやたらとご機嫌だな」
跪いたままのテラの右手を軽く跳ね除けると、テラは「ちぇっ」と舌打ちをして立ち上がった。私のイメージの中でかろうじて生成された
テラの
「なんかさ、今月も無いっぽいんだよ、
そう言いながらテラは、口元に人差し指を立ててみせた。テラの口元にではなく、私の口元に。
「気安く触るな。お前は一体どこのプレイボーイだ。そもそも目の前の扉の先でアップデートすれば、そんなことはすぐに分かる」
先ほどよりも勢い良くテラの手を跳ね除け、顎先で
テラのこの軽薄さは、ヒュムの中では天然記念物クラスだ。そんな彼は、もしかしたら口先から創られたのかもしれない。もしくはこの整った顔立ちが、後天的な悪影響を及ぼしているのだろう。ヒュムであれど人間であれど、美少年や美青年は軽薄な性格をしている傾向が強いように思う。
「うんうん、やっぱりホムラは面白いな。小難しい顔をしたところで、大方しょうもないことを考えているんでしょ」
挑発以外の何物でもないその台詞に、私の眉が吊り上がる。険しい顔をした私を前にしても、テラは構わずに意気揚々と話し続けた。
「普通のコンダクターならさ、今の場面は『どうしてそんな情報を知っている?』が
そう言われてみれば、テラの言うことはもっともだ。しかしそれが正論なのは確かにしても、私を呼び止めたテラの意図が見えない。まさか、こうして私を
心臓の苦しさも
「でも、そうゆう所が好きなんだけどね。顔も美人だし、スタイルもまぁまぁ。だってほら、こんなに天気が悪いのにさ、俺はホムラのこと、
ぐずついた空を指差しながら、テラは早口でそう告げた。「スタイルがまぁまぁ」の"まぁまぁ"の部分が気に入らないが、ここは大人の対応で聞き流すことに──する私ではない。
「おい、まぁまぁって何だ。まぁまぁって」
テラに詰め寄り、私より少しだけ高いその胸ぐらを掴む。今のはどれだけ易しめに採点しても、「スタイルもなかなか」くらいは言うべきところだ。
「うん。やっぱり面白い。ホムラを待っていて良かった」
そう言ってテラは、急にしおらしい表情を見せる。諸手を上げて「降参」の意思表示を現した後で、胸ぐらを掴んだ私の手を力なく
「──ホムラ、おちょくってごめん。ありがとう。元気出た」
「私はお前から礼を言われるようなことなど何もしていないが──どうした。何か嫌なことでもあったのか?」
月並みな台詞を敬遠するように、テラは一歩
「ううん、逆だって、その逆。言ったじゃん、何も無かった」
何も無かった。何も無かった。何も無かった──。
私は、頭の中でその言葉をたっぷりと三回反芻し、ようやくとしてテラの言葉の真意を理解した。そして気付いたのだ。テラが最初から上機嫌などではなかったことに。むしろ、最低にすら近い気分だったということに。
相も変わらず鈍すぎる私は、救えない大馬鹿者だった。
「ぱんぱかぱーん! テラさん、またまた生き残っちゃいました!」
目を見開く私から、遅すぎる理解を読み取ったのだろう。テラは急に大声を出して戯けてみせた。貼り付けられた痛々しい笑顔が、彼のやるせなさを尚のこと際立たせている。
この躰の中を、数え切れない複雑な感情が駆け巡った。愚かな私は、この感情をどう表現して良いものか分からない。哀れみでありながら、同情でもある。同情でありながら、蔑みでもある。そして悲しく、寂しく、どうしようもなく──避けては通れない憤りの中に、愛おしいという感情も、確かにある。
私は一歩進み、それから更にもう半歩詰めて、テラとの距離を縮めた。そして言う。テラの躰と私の躰が、ほとんど一つに重なる距離で。
「今度そんなふうに自分を茶化したら、私がお前を
テラの耳元で呟いた私の言葉は、私の知らない声をしていた。まるでこの空模様のように淀んでいて、雹のように冷たくて──だけどそれでいて確かな熱を帯びた、私の知らない冷徹な声。
間近に近付いたテラの瞳に、薄っすらと涙が溜まっていく。それは"ギャップ作戦"でも何でもない、信じるに値する純粋な涙だ。
『ありがとう』──声も出さず、テラは唇でそう言った。片手で顔を覆い隠して、必死に泣き声を殺している。
「生きていて何が悪い」
吐く資格もない言葉を、私はテラに捧げた。果たして今の私は、どんなに醜い顔をしているのだろう。
人格者を気取ったところで、私自身は奪う側の人間の一人にすぎない。愚かさには定評のある私も、DUMが背負った現実を最初の一年間で嫌というほどに思い知った。
唇を噛みしめて無言のままのテラは、私の言葉をどんなふうに受け止めたのだろう。そしてどんなふうに噛み砕き、どんなふうに消化していくのだろう。
やがてテラの頬に、堪え切れなかった涙の雫が伝った。
──まったく、今すぐに降ればいいのに。
もっと泣いてしまいたいであろうテラに背を向けて、先を急ぐ。
√───────────────────√
ヒュムたちには、『
政府が
人類の未来を塗り替えるほどの革命的な発明。難病を根本から治癒する新薬の開発。
テラの
その功績の一部を先述したと思うが、
トーマ博士の功績は他分野に渡り、
が、しかし──そのトーマ博士を
天才の胸の内は、凡人には分からない。
『
DUMの運営が始まった数年ののちに、その事件は起こった。
まさに青天の霹靂。世界中の
しかし、
生き残った
そう、天才の胸の内は、凡人には分からない。
誰にも理解されないままに、
自由を取り戻したばかりの
つまりその瞬間、トーマ博士の
そしてこの
もちろんテラ自身が犯罪を起こしたわけではないので、彼までもが
──他のどのヒュムよりも長く。
永く。
√───────────────────√
先ほどのテラの様子を見る限り、"生き続けている自分"が彼自身を苦しめ続けているのは最早疑いようもなかった。多くの仲間が創り出され、そして献体され
テラは、献体に選ばれる日を待ち望んでいるに違いない。
他のヒュムと同じように
生温い雨粒が、ぽつりぽつりと私の頬を濡らす。
外界と何も変わらない雨の匂いの中を振り返っても、テラの姿はもう見えなかった。途端に、胸を締めつけるような想いがじっとりと心臓に絡み付く。
この躰が重いのは雨粒のせいじゃない。
何だか今日は、憂鬱なことが重なってしまう。
──本当は。本当は。本当は。
本当は、DUMの中で起きていることの全てが憂鬱なのだ。
目を逸らすことで、あるいは捉え方を変えることで──自分にとって受け入れがたい事柄を、当たり障りのない色に塗り替えていく。幾つもの道徳的フィルターを通して、自分が受け入れられる理由で濾過して飲み下していく。
それが大人になるという行為であり、それがきっと人類の歴史の全てだ。アリスの刺さるような眼差しも、テラが隠そうとした大粒の涙も、本当であればここには存在しない。
存在しては、いけない。
その
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