EP07-02





 さらりと永久就職リブインの日取りを告げたサヨさんは、私のグラスに自分のグラスを突き合わせた。半ば強制的に祝杯を上げさせられた私は、緩やかに笑むサヨさんの唇をぼんやりと眺める。か細い首の動きで促され、思い出したかのようにカクテルに口を付けると、柑橘系の香りフレーバが口中に広がった。見た目以上の酸っぱさに口をすぼめながら、歯切れ悪く切り出す私。


「あの、サヨさん。永久就職リブインって」

「先に言ったはずよ。『あなたとプライベートで顔を合わせるのは、これが最初で最後です』と」


 確かに永久就職リブインしてしまえば、外界で顔を合わせるのは難しくなるだろう。生活基盤を滅菌状態のDUMに移す以上、いずれは免疫力低下の問題も出てくるはず。けれど、私が驚いたのはそういうことじゃない。

 不思議そうに首を傾げるサヨさんのグラスには、既に半分もカクテルが残っていなかった。酸味の効きすぎたカクテルに手こずる私を、サヨさんは妙に熱の籠もった眼差しで観察している。もしかするとサヨさんは、私を子供扱いしたくて堪らないのではないか。


「あの、そこではなく──これは公式化された情報ロックメディアですか? 私の端末にはまだそのような情報はアップされていませんが」

「まさか。私と上層部以外は知らないはずよ」


 私の質問自体が、まるで的外れだと言わんばかりにサヨさんが退けた。言いたいことの伝わらないもどかしさに、私は露骨に顔をしかめて言う。


「私たちに知らされているのは、サヨさんの永久就職リブインが内定したというところまでです。それ以上の詳細を伝えるのは禁忌行為タブーのはず」

「大丈夫ですよ、あなたが他言しない限りは──まるでいつもの私フロズンテンペストみたいに堅苦しいことを言うのね」


 今度こそ本当に、辟易することしか出来なかった。


「心配しなくても、無作為情報収集網ヒアリングスポットはこんなに喧しい場所では機能しないわ。ほら、好きなものを頼みなさい。お腹も空いているでしょうに」


 サヨさんは先ほどカクテルを運んでくれた女性を手招くと、私のためにメニューを貰ってくれた。この点については、独裁者イマリよりも気遣いが行き届いている。

 手渡されたメニューを眺めてみるも、どうにも頭に入ってこない。そんな私の様子を見ていたサヨさんが、急にお硬い口調になって切り出した。


「ホムラ、真面目一辺倒のあなたに質問です」

「私が真面目だなんて、何かの間違いですよ」

「そうね、じゃあ不真面目でも良いわ。さて質問。私が永久就職リブインすることをあなたに話して、誰かに何か不都合がある? そもそも私が永久就職リブインしてもしなくても、世間には露ほどの影響もないと思わない?」

「それは……確かにそうかもしれませんが」


 サヨさんが何を言いたいのかさっぱり分からない。真面目に話しているのかふざけているのかさえも、判別が付かなかった。


「規則を守ることに意味はないの。規則を機能させることにこそ意味がある。規則を機能させ続けたその結果として、政府は今、この世界を牛耳っている」


 対面で熱弁するサヨさんへ手を伸ばして、慌ててその口を塞いだ。彼女の話の内容が、あまりにも危険思想テロリズムに満ちていたからだ。


「サヨさん、酔ってますね。堂々と言うようなことじゃありません」

「いいえ、酔っていません。ホムラ、よく聞きなさい、そして見なさい」


 サヨさんは防音フェンスの向こうを目線で促し、少しだけ声のトーンを落とした。


「政府が世界を牛耳っていても、どれだけ徹底的に管理していたとしても、それは決して完璧ではありません。その証拠に、巷間の人々は日常ストレスの捌け口を求め、こうしてその捌け口にありついている。目には見えない息苦しさから開放されたいと、必死でこのフロアを揺らしている」


 熱狂的に踊り狂う人々の群れが、初めて物悲しく映った。


「ホムラ、たまには羽目を外しても良いのよ。どうせあなたのことだから、考えても仕方のないことばかりを考えて、ああでもないこうでもないと頭を抱えていたのではなくて?」


 そう言ってサヨさんは、微笑みながら私の頭を撫でた。予想外の出来事に、自分の頬が紅潮していくのが分かる。


「だから子供扱いしないでください。それと、見てきたようなことを言わないでください。あっ、まさかサヨさんのことだから、本当にモニターされていたのですか?」

「あら、やっぱり頭を抱えていたのですね」


 してやったりと、お腹に手をあててけらけらと笑うサヨさん。その様子に、私はじんわりとあたたかな気持ちを覚える。


「……こんなサヨさんでは、調子が狂います」

「あら、調子が狂うのはあなたの勝手ですよ」






 カクテルを飲み干したサヨさんは、すぐに次の飲み物を頼んでいた。楽しげなサヨさんにつられて、私も軽食をいくつかオーダーする。注文の品がテーブルに出揃ったところで、私たちはもう一度乾杯を交わして仕切り直した。


「サヨさん、永久就職リブインおめでとうございます」

「ありがとうホムラ。実際はおめでたくないですけどね」


 柘榴色をした新しいカクテルに口を付けながら、皮肉めいた口調でサヨさんが言った。彼女は私の三倍くらいのペースでアルコールを消化していく。


「私を困らせないでください。大変な名誉ですよ」

「ねぇホムラ。今日はオフなのよ?」

「──はい?」


 言葉の真意を汲み取れない私が頓狂な声を上げると、「やれやれ」と大きな溜め息を吐き出しながらも、茶目っ気のある表情でサヨさんが窘める。


林檎磨きコメディアンのようなおべんちゃらは要らないの。本音で話しなさい」

「……はい」


 サヨさんの瞳の奥に隠された鋭さが、静かに私を射抜いた。


「やっぱりサヨさん、酔ってますね」

「そうね、酔いたくもなります」


 今度は私が溜め息を吐き出す番だった。僅かに覚悟を決めてから、正直な考えをサヨさんへ吐露する。


「正直言って私には、永久就職リブインの価値なんて分かりません。永久就職リブインどころか、私たちコンダクターの存在する意味も──その正しささえも疑いたくなる瞬間があります」

ではなく、でしょう」


 端的な言葉で私を見透かすサヨさん。私は大きく息を吸って、続ける。


「……ですが、中央管理室コアルームでお話させて頂いた時に、ゲントク老師がサヨさんへ寄せる信頼は本物なのだと感じました。その信頼に応えることには、何らかの価値が在るのではないでしょうか?」

「──ふふ、分かったようなことを言ってくれますね」

「オフですから」

「本音のあなたに感謝します」


 私とサヨさんの視線が真正面から交わり、互いに笑みを零した。密やかな打ち明け話を包み隠すように、終わりのない重低音がフロア中に鳴り響いている。


「しかし、老師も見る目がありませんね。私は虚無主義ニヒリズムに取り憑かれた愚かな人間です。信頼する価値などありません」


 そう言ってサヨさんは、嘲笑と共に自らの首を刎ねる仕草を見せた。私はどこかいたたまれない気持ちで、サヨさんへと投げかける。


「サヨさん、イマリは享楽主義ヘドニズムを敬愛しているそうです。虚無主義者ニヒリスト享楽主義者ヘドニスト──そういった哲学的な枠組みマゴットプランニングって、果たして必要なんでしょうか? 哲学的思想マゴイズムに頼らずとも、私たちは生きていけます」


 そこまで言ってから、友人のプライバシーを安易に晒してしまったと反省する。


「どうかしらね。けれどあなたがそう思うのならば、必要ないのかもしれないわね。少なくともあなたは、私よりも幸せそうですから」


 ぽんぽんと私の頭を叩きながらサヨさんが言った。やっぱりこの人は、私のことを子供扱いしなければ気が済まないようだ。実際のところ、サヨさんから見れば私は本当に子供なのだけれど。


「宗教の陥落とは、つまり哲学の繁栄。そもそも哲学の原点は、宗教からの脱却にあるのよ。それなのに可笑しいわね、あなたはその範疇の外側に居る」

「サヨさん、私に難しい話をしても無駄ですよ」


 これは失言だった。神奈木博士の居場所を知るための計画プランの一つである、穎才ジニアスの思考回路に触発されて、哲学的思想マゴイズムをもっと学んでみたい私──という話の流れは、これで完全についえてしまった。


「そういえばホムラ。どう思いました?」

「質問を省略しすぎです」


 わざとなのか、それとも本当に酔っているのか。サヨさんは独特の調子で会話を進めていく。


「老師の台詞を聞いて、どう思いました? 『雪白ミツキの唱えた複製体保護法によって、人類は人の道を踏み外さずに済んだ』――そう言われた気分はどう?」


 唐突に飛び出した母さんの名前に、私の心臓がとくんと音を上げる。


「母さんの話は、やっぱり戸惑うだけです。たとえ心の底から褒め称えられていたとしても」


 戸惑う──それが私の正直な感想だった。まさに今この瞬間だって、母さんの名前を耳にした途端に酔いが醒めそうになる。失言ばかりの私には、それくらいが丁度良いのかもしれないけれど。


 母さんの名前は、呪いの言葉みたいに私を縛り付ける。

 雪白ミツキの足跡が、私を逃れられない現実へと縛り付けるのだ。


「戸惑い以外には、何も?」

「はい」

「そう……気を悪くしないで聞いて。率直な私の見解を述べさせてほしいの」


 私を責めるような、剣呑な眼差しがサヨさんに宿る。鋭利な氷刃の切っ先のように、温もりを許さない絶対零度の視線。

 ああそうだ、この眼差しこそが、私のよく知るサヨさんだ。私の覚悟を測るような瞳の煌めきに、私は無言のまま首肯を返した。





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