EP05-04





 イマリとランチしたその二日後、事態は急展開をみせた。急展開どころか、異常事態である。何を隠そう私は今、DUMの片隅に位置するカウンセリングルームで、神奈木コトハその人と向かい合っているのである。これが異常事態でなくて何だというのか。


 落ち着き払った雰囲気のダウンライトに照らされた個室は、控え目な自己主張をする観葉植物に彩られていた。憂いを覆い隠そうとする優しい緑色。その中央には簡易的なパイプ椅子が二脚設けられ、私と神奈木博士が正対している。定期検診を受けようとする患者クランケ医者ドクタのように。


 初めてこの目にする賢人の上位互換ワイズマンジェネレートの第一印象は、無機的アンチエーテルという言葉に尽きる。清廉というよりも純潔で、純潔というよりも無私──そして、無私どころか無心。


 神奈木博士に対峙したその瞬間、敬意とか畏怖だとかの感情を抱くよりも先に、彼女が放つ絶対的な空虚に思考を奪われたのだ。たとえこの先、誰に大袈裟と笑われようとも、私は神奈木博士との出会いを、"未知との遭遇スペースファンタジア"と換言することをいとわないだろう。


「雪白ホムラ、そう固くなるな。これは簡単な取り調べチェックアップだ」


 抑揚のない言葉に、私はますます身構えた。そもそも、取り調べチェックアップされる理由が思い当たらない。それに一見する限り、神奈木博士は記録メディアはおろか、携帯端末ワールドリンクさえも不携帯だ。完全に手ぶらの状態で私と向き合っている。


 神奈木博士は、肩甲骨の下まで伸ばした黒髪を一つに纏め、純白に限りなく近い白衣に身を包んでいた。きっと、漂白剤ブリーチの分量を間違えているに違いない。彼女の足元は、やはり真っ白で踵の低いシンプルなシューズ。なのにその背丈は私より拳一つ分ほども高く、すらりと伸びた長い脚からは、学術者アカデミクスにありがちな病弱さを見つけることは出来なかった。

 前髪の隙間から覗く眼光は鋭く、しかしそれと矛盾して何の意思も宿さない。先述の通り神奈木博士からは、その口調や表情の一切から、感情の片鱗さえ感じ取ることが出来なかった。私のような凡人に、賢人ワイズマンの考えが理解出来ないのは当然にしても、彼女とこうして向かい合うだけで、自分が得体の知れない不安や虚無感に苛まれていくのが自覚される。


 私は、これに似た感覚を知っていた。それも極々最近、味わったばかりだ。


 そうこれは、"太陽の砕けた宇宙で迷子になった気持ち"だ。あの悪夢の中で私を襲った、底知れぬ漆黒の中に溺れるどうしようもない絶望感ブラックアウト──あの感覚に、とてもよく似ているのだ。


「さて、お前はお前の思うままを答えればいい。無論、黙秘したければそれで構わん」


 銃口を突きつけるような冷たい口調に、全身が強張る。非武装の女性に竦み上がるなんて馬鹿馬鹿しい限りだけれど、神奈木博士を包む無機質な空気は、私を怯えさせるには充分だった。


「神奈木博士──大変恐縮ですが、私から先に質問させて頂けますか?」


 恐れを振り払うように、あるいは恐れを振り払うために言葉を発する。黙秘する権利と同じくらい、質問する権利だって与えられているはずだ。少しでも情報を引き出して、自分のペースを取り戻したいと考えた。


「好きにしろ」


 端的な言葉さえ、メスの一閃を思わせる。神奈木博士は無表情のままに脚を組み、ただ静かに私の言葉を待った。


「訊きたいことは山ほどあります。まず今の状況が理解不能です。博士がこの場にいらっしゃる意味や目的も不明ならば、なぜ私が取り調べチェックアップされる対象に選ばれたのかも分かりません」

「ふむ。次に?」


 私の質問の一切を無視して、神奈木博士は次の質問を促した。面食らう気持ちを圧し殺して、私は続ける。


「次に、黙秘を認める理由が分かりません。この取り調べチェックアップが何らかの法的強制力ガバメンタルを伴うならば、黙秘を認めるのは博士の不利益となります。また、この対話を記録している様子が見受けられないのも不自然です」

「ふむ。他には?」


 一方的に質問しているのは私なのにも関わらず、じりじりと追い詰められていく感覚があった。たとえ矢継ぎ早に問いかけを繰り出したところで、神奈木博士は最初から答えるつもりなど無いのではなかろうか。


「──そもそも神奈木博士には、質疑に応じてくださる優しさがありますか?」

「早急な性格なのだな」

「私は凡人ですので、話しているそばから自分の投げた質問を忘れるんです」


 破れかぶれで吐き出した自虐的な冗談にも、博士は無表情を崩さずに言った。


「お前が凡人だなどと、どの口が言うのか。新世界の片脚ワールドトリガで在るお前は、一部の定義において私と等しい」

「──新世界の片脚ワールドトリガ?」


 初めて耳にする単語を、反問鳥オウムの如く反芻する。新世界の片脚ワールドトリガとは、何だ。それに何より、私が神奈木博士と等しいとは?


「どうした? 何が気に入らない」


 怪訝な表情を浮かべていたであろう私に、神奈木博士が問いかけた。気に入らないもなにも、彼女の言葉はあまりにも要領を得ない。解読不能アンノウンこじらせる私に、消化不良の気持ち悪さが積み重なる。


「いえ、天才の上位互換エジソンジェネレートとまで称えられた貴女が、こうもコミュニケーション能力に欠けていることに驚いただけです」


 私の口をいて出た軽口を、他人事のように憎らしく思った。サヨさんと衝突した際の反省が活かされていない。けれど驚いたことに、神奈木博士はここで初めて、口元を緩ませて感情を表したのだった。


「ふふ、やはりお前は興味深いな。DUMの現状には色々と失望させられたが、わざわざ足を運んだ対価は得られそうだ」

「博士、質問を重ねます。この施設内で、何かトラブルでも起きているのですか?」


 神奈木博士の「やはり」という表現を聞き流し、反射的に問いかけた。将来を憂うイマリの顔が、咄嗟に頭に浮かぶ。少なくとも今の疑問は、先日のイマリとのやり取りがなければ生まれてこなかったはずだ。

 一瞬にして無表情を取り戻した神奈木博士は、冷淡に答える。


「些末な問題だ。すでに大方は解決した。お前との対話は、くだらない問題で私を呼び付けた政府への当てつけだ」


 政府の呼び付け? 政府への当てつけ? 話すほどに増え続ける疑問符に、私の頭はパンク寸前だった。質問を繰り出すたびに、悪戯に靄がかかっていく。最初から博士の質問に答える形を取れば良かったと、今更ながらに悔やまれた。


「神奈木博士。せめて一つだけでも、私の質問に真面目に答えて頂けませんか」


 低い声で申し出た私に、博士は心外とばかりに片眉を吊り上げる。


「お前は不思議なことを言う。お前が新世界の片脚ワールドトリガだからこそ、私は今ここに居るのだ。お前が抱いた全ての疑問に対して、それ以上の解は存在しない」


 天才には文脈というものがないのだろうか? そう疑いたくなるほどに、理解の壁は高い。神奈木博士に比べたら、イマリの話の飛躍の仕方が可愛らしく思えてくる。もしかすると博士は、極端に理系の分野へ才能が偏っているのではないか。


 喉元まで迫り上がった冗談を噛み殺し、私は断言した。「私は博士の話し相手には不適任です」と。すると博士は答えた。私の勘違いでなければ、喜びの感情をその声音に滲ませて。


「私はお前を対等だと思っているよ。お前と私がこの距離に在ることも、お前に黙秘権が認められていることも、全ては私がお前を認めているからだ。お前には無限の可能性がある。一塵いちじんの可能性も持たない神奈木コトハとは違い、雪白ホムラは可能性に満ち満ちている」


 賢人の上位互換ワイズマンジェネレートの台詞を、これ以上ない皮肉だと受け取った。私は決して、感受性が屈折した人間カレイドスコープではないはずだ。しかしそれでも、凡人に浴びせられた無責任な賞賛は、屈辱にも似た感情を芽生えさせた。


「皮肉ですね。神奈木博士以上の可能性が、この世のどこにあると仰るのです」


 精一杯の平然を装って問うと、目の前の賢人は、さも平然と答えた。


「そうだな、私の名前には"神"が宿る。お前たちが殺した"神"は、私にこそ宿っているのかもしれない。私に可能性が在るとしたら、"神"として生きる可能性か」

「神奈木博士。布教行為ヒプノシスは当然、禁忌行為タブーに触れます。それらを匂わせる発言は、いかに博士といえども非公式化アンロックの対象になるかと」


 私が吐き出した薄っぺらい忠告に、思わず吹き出しそうになった。少なくとも私に、禁忌行為タブーを責める資格はない。

 神奈木博士は、ただ単に洒落ジョークを言ったのだ。自分の名前に含まれた"神"の一字を、嘲弄ちょうろうしてみせただけなのだ。空気も読まずに忠告した私は、恥知らずでどこまで愚かしいのか。


 しかし神奈木博士が、私を咎めることはなかった。それどころか、今度こそ本当に楽しそうに──興奮を滲ませながら言う。


「好きにすればいい。非公式化アンロックされようとも私は自由だ」

「心が自由でも、生活に制限がかかります」

「私は決して、精神的な意味に限って言ったんじゃない。ありとあらゆる意味で、私は自由で在り続ける」

「──つまり、私は"生きる治外法権パブリックアウトロー"だとでも?」


 いつの間にか、私と神奈木博士の間に会話と呼べるものが成立していた。


「そんな二つ名もあったな。世俗とは実に面白い」

「皮肉ですね。貴女のような穎才ジニアスには、世俗など無能の集まりでしょう」


 気付けば賢人の上位互換ワイズマンジェネレートは、無機的さアンチエーテルを放っていない。神奈木博士は、私の瞳を覗き込んで言う。今の彼女には、何らかの意志が宿っているように見えた。


「雪白ホムラ、"世俗"とは本来、宗教とは無縁の状態を指し示す」

「仰る意味を測りかねます」

「神の死んだこの世界は、まさに世俗だ。治めるべき神の不在が、かりそめの安寧を灯している」


 神奈木博士は、そう言ってどこか遠くを見やる。束の間の静寂に、空調ダクトの囁きヒーリングホイッスルが微かに響いていた。


「その宗教が、遠くない過去に大禍ヴォルテクスを引き起こしました」

「そう学んだのだろう? 可哀想に」

「周知の事実です」


 私は、スクールで学んだ数々の資料を思い起こす。


 腐敗した大地を蝕む突然変異の病原体。沸騰した海に降り注ぐ硫酸の雨。

 神に導かれた不毛な争い──世界を満たした死の匂い。


「ならば言葉を変えようか。雪白ホムラ、 だろう?」


 私の心臓が、どくん、と脈打つ。神奈木博士の表情が、私を仕留めたといわんばかりの悦びに染まる。


「……少なくとも世俗は、事実だと認識しています」


 項垂うなだれた私は、せめてそう躱すのが精一杯だった。


「戸惑いを覚えるお前は、その世俗を捨てたがっている」


 神奈木博士はそう断言して、蔑むような視線と共に微笑んだ。その姿はどこか神話的ポルノチックで、光背こうはいが射したような神々しさデカダンスを纏っている。

 それはもちろん、私の錯覚なのだけれど──錯覚と断定するには、あまりにも生々しい感覚だった。


 言葉を失くした私に、神奈木博士は問いかける。まるで神の啓示ダウンフォールのように──それこそ神話的ポルノチックに。


「世俗に染まり、目を閉じ続けるのか? "神の消失"こそが、真の大禍ヴォルテクスなのではないか? 人間とはいつの時代も、神の存在を求めるものだ。歴史をかんがみれば、それは真理」


 畳み掛けるように、博士が言葉を繋いでいく。


「雪白ホムラ、お前は何故ここに居る? この安寧が偽りだと気付きながら、いつまで世俗のフリを続ける?」


 確かな熱を帯びた博士の言葉が、私の胸を早鐘のように打ち鳴らす。


 一体何が、神奈木博士をそうさせるのだろう。一体どうして、彼女は私に説き続けるのだろう。私のことを、やたらとよく知っているふうな口振り──そこに感じる薄気味悪さや苛立ちの裏で、歓びにも似た感情が、この胸を震わせている。


 彼女に覚える安堵感や開放感は、一体どこからやってくるのか。





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