EP05-04
イマリとランチしたその二日後、事態は急展開をみせた。急展開どころか、異常事態である。何を隠そう私は今、DUMの片隅に位置するカウンセリングルームで、神奈木コトハその人と向かい合っているのである。これが異常事態でなくて何だというのか。
落ち着き払った雰囲気のダウンライトに照らされた個室は、控え目な自己主張をする観葉植物に彩られていた。憂いを覆い隠そうとする優しい緑色。その中央には簡易的なパイプ椅子が二脚設けられ、私と神奈木博士が正対している。定期検診を受けようとする
初めてこの目にする
神奈木博士に対峙したその瞬間、敬意とか畏怖だとかの感情を抱くよりも先に、彼女が放つ絶対的な空虚に思考を奪われたのだ。たとえこの先、誰に大袈裟と笑われようとも、私は神奈木博士との出会いを、"
「雪白ホムラ、そう固くなるな。これは簡単な
抑揚のない言葉に、私はますます身構えた。そもそも、
神奈木博士は、肩甲骨の下まで伸ばした黒髪を一つに纏め、純白に限りなく近い白衣に身を包んでいた。きっと、
前髪の隙間から覗く眼光は鋭く、しかしそれと矛盾して何の意思も宿さない。先述の通り神奈木博士からは、その口調や表情の一切から、感情の片鱗さえ感じ取ることが出来なかった。私のような凡人に、
私は、これに似た感覚を知っていた。それも極々最近、味わったばかりだ。
そうこれは、"太陽の砕けた宇宙で迷子になった気持ち"だ。あの悪夢の中で私を襲った、底知れぬ漆黒の中に溺れるどうしようもない
「さて、お前はお前の思うままを答えればいい。無論、黙秘したければそれで構わん」
銃口を突きつけるような冷たい口調に、全身が強張る。非武装の女性に竦み上がるなんて馬鹿馬鹿しい限りだけれど、神奈木博士を包む無機質な空気は、私を怯えさせるには充分だった。
「神奈木博士──大変恐縮ですが、私から先に質問させて頂けますか?」
恐れを振り払うように、あるいは恐れを振り払うために言葉を発する。黙秘する権利と同じくらい、質問する権利だって与えられているはずだ。少しでも情報を引き出して、自分のペースを取り戻したいと考えた。
「好きにしろ」
端的な言葉さえ、
「訊きたいことは山ほどあります。まず今の状況が理解不能です。博士がこの場にいらっしゃる意味や目的も不明ならば、なぜ私が
「ふむ。次に?」
私の質問の一切を無視して、神奈木博士は次の質問を促した。面食らう気持ちを圧し殺して、私は続ける。
「次に、黙秘を認める理由が分かりません。この
「ふむ。他には?」
一方的に質問しているのは私なのにも関わらず、じりじりと追い詰められていく感覚があった。たとえ矢継ぎ早に問いかけを繰り出したところで、神奈木博士は最初から答えるつもりなど無いのではなかろうか。
「──そもそも神奈木博士には、質疑に応じてくださる優しさがありますか?」
「早急な性格なのだな」
「私は凡人ですので、話しているそばから自分の投げた質問を忘れるんです」
破れかぶれで吐き出した自虐的な冗談にも、博士は無表情を崩さずに言った。
「お前が凡人だなどと、どの口が言うのか。
「──
初めて耳にする単語を、
「どうした? 何が気に入らない」
怪訝な表情を浮かべていたであろう私に、神奈木博士が問いかけた。気に入らないもなにも、彼女の言葉はあまりにも要領を得ない。
「いえ、
私の口を
「ふふ、やはりお前は興味深いな。DUMの現状には色々と失望させられたが、わざわざ足を運んだ対価は得られそうだ」
「博士、質問を重ねます。この施設内で、何かトラブルでも起きているのですか?」
神奈木博士の「やはり」という表現を聞き流し、反射的に問いかけた。将来を憂うイマリの顔が、咄嗟に頭に浮かぶ。少なくとも今の疑問は、先日のイマリとのやり取りがなければ生まれてこなかったはずだ。
一瞬にして無表情を取り戻した神奈木博士は、冷淡に答える。
「些末な問題だ。すでに大方は解決した。お前との対話は、くだらない問題で私を呼び付けた政府への当てつけだ」
政府の呼び付け? 政府への当てつけ? 話すほどに増え続ける疑問符に、私の頭はパンク寸前だった。質問を繰り出すたびに、悪戯に靄がかかっていく。最初から博士の質問に答える形を取れば良かったと、今更ながらに悔やまれた。
「神奈木博士。せめて一つだけでも、私の質問に真面目に答えて頂けませんか」
低い声で申し出た私に、博士は心外とばかりに片眉を吊り上げる。
「お前は不思議なことを言う。お前が
天才には文脈というものがないのだろうか? そう疑いたくなるほどに、理解の壁は高い。神奈木博士に比べたら、イマリの話の飛躍の仕方が可愛らしく思えてくる。もしかすると博士は、極端に理系の分野へ才能が偏っているのではないか。
喉元まで迫り上がった冗談を噛み殺し、私は断言した。「私は博士の話し相手には不適任です」と。すると博士は答えた。私の勘違いでなければ、喜びの感情をその声音に滲ませて。
「私はお前を対等だと思っているよ。お前と私がこの距離に在ることも、お前に黙秘権が認められていることも、全ては私がお前を認めているからだ。お前には無限の可能性がある。
「皮肉ですね。神奈木博士以上の可能性が、この世のどこにあると仰るのです」
精一杯の平然を装って問うと、目の前の賢人は、さも平然と答えた。
「そうだな、私の名前には"神"が宿る。お前たちが殺した"神"は、私にこそ宿っているのかもしれない。私に可能性が在るとしたら、"神"として生きる可能性か」
「神奈木博士。
私が吐き出した薄っぺらい忠告に、思わず吹き出しそうになった。少なくとも私に、
神奈木博士は、ただ単に
しかし神奈木博士が、私を咎めることはなかった。それどころか、今度こそ本当に楽しそうに──興奮を滲ませながら言う。
「好きにすればいい。
「心が自由でも、生活に制限がかかります」
「私は決して、精神的な意味に限って言ったんじゃない。ありとあらゆる意味で、私は自由で在り続ける」
「──つまり、私は"
いつの間にか、私と神奈木博士の間に会話と呼べるものが成立していた。
「そんな二つ名もあったな。世俗とは実に面白い」
「皮肉ですね。貴女のような
気付けば
「雪白ホムラ、"世俗"とは本来、宗教とは無縁の状態を指し示す」
「仰る意味を測りかねます」
「神の死んだこの世界は、まさに世俗だ。治めるべき神の不在が、かりそめの安寧を灯している」
神奈木博士は、そう言ってどこか遠くを見やる。束の間の静寂に、
「その宗教が、遠くない過去に
「そう学んだのだろう? 可哀想に」
「周知の事実です」
私は、スクールで学んだ数々の資料を思い起こす。
腐敗した大地を蝕む突然変異の病原体。沸騰した海に降り注ぐ硫酸の雨。
神に導かれた不毛な争い──世界を満たした死の匂い。
「ならば言葉を変えようか。雪白ホムラ、 そう学んだだけのことだろう?」
私の心臓が、どくん、と脈打つ。神奈木博士の表情が、私を仕留めたといわんばかりの悦びに染まる。
「……少なくとも世俗は、事実だと認識しています」
「戸惑いを覚えるお前は、その世俗を捨てたがっている」
神奈木博士はそう断言して、蔑むような視線と共に微笑んだ。その姿はどこか
それはもちろん、私の錯覚なのだけれど──錯覚と断定するには、あまりにも生々しい感覚だった。
言葉を失くした私に、神奈木博士は問いかける。まるで
「世俗に染まり、目を閉じ続けるのか? "神の消失"こそが、真の
畳み掛けるように、博士が言葉を繋いでいく。
「雪白ホムラ、お前は何故ここに居る? この安寧が偽りだと気付きながら、いつまで世俗のフリを続ける?」
確かな熱を帯びた博士の言葉が、私の胸を早鐘のように打ち鳴らす。
一体何が、神奈木博士をそうさせるのだろう。一体どうして、彼女は私に説き続けるのだろう。私のことを、やたらとよく知っているふうな口振り──そこに感じる薄気味悪さや苛立ちの裏で、歓びにも似た感情が、この胸を震わせている。
彼女に覚える安堵感や開放感は、一体どこからやってくるのか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。