EP05-05
「──はは、何だか笑えてきました」
「何が可笑しい?」
「まさか、あの神奈木博士が
声を上げて笑う私に、神奈木博士はその目を丸くした。彼女の様子を見る限り、私の反応は
「そうだな──たまにはこんな私も悪くない」
そう言って
頭の片隅で、神奈木博士の年齢を推測する。
「ふふ、私が
「軽口が過ぎます。たとえ偽りだとしても、安寧は安寧です」
度の過ぎた
「案外、お前なのではないか?
神奈木博士の思考が加速したのか、あるいは脱線したのか──私は再び彼女の真意を見失う。まさか、
「──神奈木博士。貴女は私の何を知っているのですか」
「お前たちのことは、何も分からない──私は
と、そこで──神奈木博士の話を遮るように、荒々しいノックが響いた。
サヨさんは足早に私たちの間へ割って入ると、惜しみない剣呑な眼差しで
「
サヨさんはその不機嫌さを隠そうともせず、雄弁に言い放った。サヨさんの入室から少し遅れて、ふんわりとした芳香が室内を満たす。サヨさんの甘やかな香りが、緊迫した状況に不似合いで少しだけ可笑しかった。
神奈木博士は、何の感情も滲ませずに言う。
「
「いいえ、私の憶測で申し上げました。私は
先ほどの神奈木博士の言い回しを、抜け抜けと真似るサヨさんが心底恐ろしい。神奈木博士の過激な発言の数々は、
一瞬にして場を牽制した頭の回転の速さに、ある種の頼もしささえも感じた。けれどそれは私の
「ホムラ、世界的権威は随分と変わり者なの。興味深い話も山ほどにあるでしょうが、あまり真に受けてはいけません。そもそも半人前のあなたには、意見など必要ありませんから」
辛辣を飛び越えて、私の人権さえも無視したサヨさんの毒舌に閉口する。心密かに、神奈木博士からの助け舟を期待したけれど、彼女は無表情に私たちを眺めているだけだった。
「さぁ神奈木博士。ご退室を」
口撃とも云えるほど強い口調に、私は確かな違和感を覚えた。
サヨさんは、別に苛立っているわけじゃない。サヨさんは──焦っているのだ。神奈木博士の身勝手な行動に。
だとしたら、それは私のため? 自分で思い至った答えに、腑に落ちない気持ち悪さが残った。濁流に流される船のような心細さを、ダウンライトが照らしている。
「心配は無用だ。天語サヨ、私はお前の出世を邪魔するつもりはない」
神奈木博士が言い放ち、サヨさんは無言のままでその目を見据える。出世というのは、おそらく
「トーマの遺した箱庭を、私が踏み躙るのも一興ではあるが──」
神奈木博士は、唐突にもう一人の
「もう暫くは、
「……ホムラ、すみませんが席を外して頂けますか?」
サヨさんは私の顔も見ずにそう言った。冷淡な口調の中に、僅かな嘆願の色が見え隠れしている。
その訴えに、私はゆっくりとかぶりを振った。神奈木博士が真実の輪郭を垂れ流すのなら、願わくば私も触れてみたかった。この世界の矛盾の片鱗を、知れるものなら知ってみたかったのだ。
眉一つ動かさないサヨさんの視界に、私はさぞかし出来の悪い部下に映ったことだろう。しかし意外にもサヨさんは、それ以上私に何を求めることもなく、平然と話を続けたのだった。
「神奈木博士、貴女には感謝しています。貴女のおかげで、私たちは
「しかし博士、身勝手を承知でお願い申し上げます。聡明な貴女には、どうかこのまま静観して頂きたい」
「心配には及ばん。今しがた話したように、私は観測するだけさ。寂しがり屋のトーマとは違う。彼がお前たちの失態を知れば、
だから私は、神奈木博士の言葉に耳を疑った。まさか
「
「私たちは? 天語サヨがの間違いだろう?」
サヨさんも、
切り捨てるような神奈木博士の言葉に、整った眉をひそめる。
「……ええ、ではそれでも構いません。この私、天語サヨがそう望んでいます」
サヨさんの言葉を受けた神奈木博士は、口元だけで微笑んだ。まるで何かに満足したとばかりに。軽やかな動作で椅子から立ち上がった彼女は、子供を諭すような口調で言う。
「天語サヨ、もう一度言っておく。私はお前の出世の邪魔をするつもりはない。心配は無用だ。よく眠れ」
そして神奈木博士は、私の方を見た。彼女はやはり子供を諭すように、私にも別れの言葉を告げる。
「雪白ホムラ、こんなに楽しい時間は久しぶりだった。また会おう。お前もよく眠れ」
静かに退室する神奈木博士の背中を目送する。あとに残された疑問の数々に、重たい疲労感を覚えた。横目でサヨさんの表情を窺うと、サヨさんも同じようだ。
しかし私は、サヨさんに話しかけることが出来ない。質問すべき事項には事欠かなかったし、今ならば"神奈木博士"という
共有される沈黙は、「私を責めないのですか?」というサヨさんの言葉によって切り崩された。バツの悪い気持ちで、私は答える。
「意味不明です。私を叱るとしたらサヨさんですよね」
「いいえ。
そう言って頭を下げるサヨさん。私が慌てて立ち上がると、サヨさんは条件反射のように更に深く頭を下げた。戸惑いながらも、サヨさんの上体を起こす。
「私を心配してくださったのですよね? ほら、私はサヨさんの『可愛い部下』ですから」
この場の空気がいたたまれなくなり、精一杯に
「──誰があなたのことを、『可愛い部下』などと言ったのです?」
「他ならぬサヨさんです。神奈木博士に向けて、確かにそう仰いました」
「そうでしたっけ?」
サヨさんは、眉間に指をあてて考えこむ仕草を見せた。強く否定されると思っていただけに、思わず言葉に詰まる。
──なんだか調子が狂うなぁ。
そんな想いと共に、天井を仰ぐ。清潔以外に取り柄のないこのカウンセリングルームは、あの夢の中の母さんの病室にどこか似ていると思った。
「ホムラ、あなたは──」
思い詰めたような口調でサヨさんが切り出し、私は身構える。
「あなたはまだ、引き返せるのですよ」
その言葉は、仄暗い悲壮感を持って私を貫いた。愚かな私は、サヨさんの言葉の重さの半分も理解していないに違いない。けれど、その意味は
「知らないことだらけで、引き返すには早過ぎます」
「……そうね」
サヨさんは端的に呟いて、また黙りこくってしまった。沈黙を持て余す私たちの目線は、柔らかなダウンライトや、整い過ぎた観葉植物や、パイプ椅子の脚などを無意味に泳ぎ回ったあとで、再び交わる。
サヨさんが、口元だけで薄っすらと微笑んだ。そして言う。物事の核心をあえて避けて通るように。それでも、私と確かに向き合いながら。
「ホムラ、あなたがもう少し優秀な人材であれば、私の出番はなかったと思います」
「サヨさん、私は助けを求めた覚えはありません。むしろ、あの
「もう一度言わせるのですか? 半人前のあなたに、意見など必要ないのですよ」
「可愛い部下の意見を聞くことも、優秀な上司の仕事の一つだと思います」
時折笑いを交えながら、時折顔を引き攣らせながら、無意味な皮肉の応酬は続いた。軽い冗談のはずが、いつしか本当に険悪な空気になり、そもそも最初から聞き流しておけば良かったとさえ思えた。
処世術という言葉は私には無縁で、サヨさんとうまくやっていくことはこの先も出来そうにない。そもそも相性が最悪なのだと悟りたくなるくらいだ。私とサヨさんは水と油のように──決して混ざり合わない感性で、この先もずっと啀み合っていくのだと思う。
けれど少なくとも、この不毛なやり取りによって、私には一つの結論が与えられたのだ。私の目の前の上司──天語サヨは、
──私はもしかすると、上司に恵まれているのかもしれない。
いつかイマリと食事でもしながら、そんな意見を口にする自分の姿が思い浮かんだ。けれど、「さすがにそれは遠い話か」と、すぐに思い直して前を向く私だった。
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