EP08-05





「天賦の才というものは存在する──そう確信させるほどに、テラの演算処理能力は優れていました。人体の秘めたる才能が、その後の環境や努力に左右されるとしても、後天的な影響など瑣末な問題に過ぎないと、今の私は断言出来る」


 陶酔するかのような口調でサヨさんは語った。彼女の纏う甘やかな香りを、今更ながらに意識する。


倫理の迷宮クノッソスへの干渉──それを何かに例えるなら、壁一面に描かれた曼荼羅模様メンデルサークルを正確に記憶トレースし、寸分の狂いもなく別の場所へ書き写すような作業です。遥かな高みから俯瞰した時にのみ意味を成すスクリプトの群れ。効率の良さだけを追い求めている最新のオペレーションシステムたちとは全く真逆の構成。トーマ博士の組み上げた芸術の世界を、テラは瞬く間に理解して自ら製図ドローするまでに至りました」

「自ら製図ドロー……まさかテラは、その倫理の迷宮クノッソスとやらを構造模写エミュレートしたのですか?」

「ええ。彼はそれを"鏡合わせの倫理アンチクノッソス"と呼んでいる」


 鏡合わせの倫理アンチクノッソスという大仰な響きに、私は思わず息を呑んだ。サヨさんの言葉の意味など、実のところ半分も理解出来ているかどうか怪しい。それでもテラがトーマ博士の発明品を構造模写エミュレート出来るのであれば、それが妨害ジャミングどころか乗っ取り行為マウンティングに等しい行為なのだという理解は出来る。


 けれど──。


「サヨさんの話が真実なら、反政府テロ行為の大半はすでに完了していると言えます。DUMの深部にテラの意志が潜り込んでいる以上、後はどうにでもなるのではないですか?」


 そう、サヨさんの話に偽りがないのなら、大きな疑問が残る。サヨさんが私を勧誘する辻褄が合わないのだ。ただでさえ、これといった特技のない私を引き入れるメリットが見えない。それなのにサヨさんは、一体何を思って私にこの話を切り出しているのか。


 グラスの中に溶け残った氷が結露を呼び、テーブルの上を濡らしていた。サヨさんは華奢な人差し指をその端へと伸ばし、引っ掻くようにして『N』と『O』を綴る。


「そうね。私もそう思っていました。私の役割も、一時は終わったと錯覚した──テラに必要な情報を提供し、倫理の迷宮クノッソスに至るまでの電極経路エーテルルートを調律し──そして何よりも資源面で協力した。あらかたの機材や物資を提供し終えた時、『私の役割もここで終わりだ』などと思ったものです」


 引き伸ばされた卓上の湖を、より激しく掻き回すサヨさんの指先。それは水溜まりで遊ぶ幼子のステップから、小さな生命を踏み潰し蹂躙する激しさへと変わる。明確な苛立ちを宿したその動きは、私が今まで目にしてきたどのサヨさんよりも人間的な感情を灯していた。


倫理の迷宮クノッソスを乗っ取るにあたって──つまりDUMの運営を鏡合わせの倫理アンチクノッソスへと移行していく段階で、大きな問題が発生しました。どうしても干渉することが出来ない箇所ホールがあったのです。テラの頭脳を持ってしても、それは叶わなかった。どんな技術も概念も通用しない、不可侵の領域ブラックボックスが、倫理の迷宮クノッソスの最深部には存在していました」


 サヨさんの眉間が歪む。告げられた事実は、"沓琉トーマ"という天才が遺した皮肉な意思表示に思えてならなかった。誰の言葉も届かず、どんな理屈も通用しない核のような場所が、私たちの心には存在する。この心には──ともすれば脳内には、何者にも左右されない不可侵の善悪ブラックボックスが宿っている。


 きっとそれこそが、倫理の迷宮クノッソスなのだ。


「私とテラが、不可侵の領域ブラックボックスの存在に躓いたのが四年前です」

「──四年、も?」


 さらりと述べられた四年という月日に、思わず脱力してしまう。このDUMの中での四年間は、光陰流水の如しというわけにはいかないだろう。そのかんの苦しみや葛藤を思うと、うっすらと意識が遠のくような虚無感に包まれた。


「そう、四年です。この四年間こそが、私の本当の戦いでした。私が老師に──いては政府に認められるための戦いだった」


 ダンスフロアから上がる歓声は、もはや別世界のものだ。体躯を震わせる轟音は、私たちの心の振れ幅を余計に浮き彫りにさせるだけ。


不可侵の領域ブラックボックスは、もちろん倫理の迷宮クノッソスの中に隔離バリケードされているはずです。だから私は、中央管理室コアルームの上層階への立ち入りが可能な権限アドミンを得る必要がありました」


 サヨさんの全身からは、悲壮な決意が滲み出ていた。


「まさか……まさかサヨさんは、そのために永久就職リブインされると言うのですか?」


 防音フェンスの内側に響く彼女の無言が、私の言葉を肯定する。


 私は狼狽の色を隠せない。確かに永久就職リブインしたコンダクターには、より多くの権利や権限が与えられるはずだ。だからもしかせずとも、一般職員が立ち入り禁止のエリアに立ち入る権利も与えられるだろう。しかし──。


 サヨさんは、その不可侵の領域ブラックボックスに物理的な接触をするためだけに──ただそれだけのために老師に従い、DUMに尽くし、コンダクターの模範としてずっと振る舞ってきたというのだ。人知れない決意を胸に秘めた彼女の四年間は、死神の仮面を被った忍耐の時間だっだというのだ。


「ホムラ、あなたに想像出来ますか? 本当に、本当に長い地獄でした。不本意な献体告知アナンシエイションを、私は何度突き付けたことでしょう。至上の歓びとして受け入れるヒュムの顔も、絶望を知り泣き崩れるヒュムの顔も、この両目で数え切れないほどに見てきました。その全てを、私は克明に記憶している。そしてこれからも、決して一生忘れることはない」


 サヨさんの、震える声。それでも彼女は、強い眼差しのまま私を直視している。

 その凛々しさが痛々しくて、正視に堪えなかった。

 そして私は、何も出来なかった。何を言ってあげることも、出来なかったのだ。


「ホムラ、そんな顔をしないで。私やテラの全てが、まだ無駄になったわけじゃないの。この地獄を終わらせるための──ここに来るまでのヒュムたちの犠牲を無駄にしてはいけない」


 精一杯に微笑もうとするサヨさんに、私は出来る限り戸惑いを隠しながら──問いかける。ここから、前を向くために。


「サヨさん。私は……何をすれば? やはりテラの救出でしょうか?」


 サヨさんはゆっくりとかぶりを振って答える。


「テラの隔離については、まったく問題ないわ。神奈木博士がDUMに来訪してからテラが隔離されるまでに、全部で五日もあったのよ。それだけの準備期間があって、鏡合わせの穎才アンチジニアスが何もせずにいたと思う?」


 今度は私がかぶりを振る番だった。そして更に分からなくなる。この状況において、サヨさんが私に託そうとしていることとは、一体何だ?


「差し当たっての課題は大きく二つ。倫理の迷宮クノッソス最深部への物理的な到達。そして最大の不確定要素アンノウンである神奈木博士の退場。あなたの役目は、もちろん後者よ」

「神奈木博士の──退場」


 理解が追いつかず、間抜けな反芻が口許から漏れる。


「あなたと神奈木博士の対談には本当に驚かされたわ。まさかあなたが、あの生きる治外法権パブリックアウトローと"会話"を成立させられるなんて」

「からかうのは止めてください。あれは一方的に私が振り回されていただけです」

「そうかしら? 神奈木博士は言っていたじゃないの。『私はお前を対等だと思っているよ』と。神奈木博士ディア・ジニアスが使った"新世界の片脚ワールドトリガ"という言葉の意味するところは、私にもさっぱりと分かりませんが──あなたが何らかの要因アドバンテージを持って彼女に気に入られているのは確かよ」


 盗み聞きを憚る様子もなく、サヨさんは言った。新世界の片脚ワールドトリガ──そうだ、確かに神奈木博士は私をそう称したのだ。その言葉の真意は、どうやらサヨさんにも心当たりがないらしい。

 掴みどころのない神奈木博士との会話を思い出す。縦横無尽に反復する思考の羅列。私を試すような、それでいて思想を手繰り寄せるかのような賢人の上位互換ワイズマンジェネレートの口ぶり。彼女は一体何を考えて、私との面談の場を設けたのだろうか。


「ホムラには、今回の件に対する神奈木博士の立ち位置スタンスを明らかにしてほしいの。底の知れない不確定要素アンノウンの動向を、少しでも把握したいと考えています。最悪の場合──穎才ジニアスを物理的に拘束バインドする必要も出てくるでしょう」

「……それは穏やかじゃないですね」


 馬鹿げた言葉を口にする私は、やはり覚悟が足りないのだろう。あるいは想像力イマジネーションが、もしくは現実感リアリティが足りないのかもしれない。穏やかなままで居られるのなら、そもそもサヨさんは私に協力を仰いだりしないのだ。


「その時が来たら、私から報せます。それまでにあなたの気が変わらないことを願っていますよ」

「──素敵な上司に恵まれたことを感謝します」


 サヨさんは魅力的で、同時に残酷だった。

 サヨさんが耐え忍んだ月日の長さを聞かされた私が、今さらこの程度の葛藤で、きびすを返せるわけがないと分かっているのだ。


 それでも私は、手段を掴みかけている。先行きは暗闇ばかりでも、アリスの昇華サブリメイションを回避出来る僅かな可能性が、の行く先に遠く近く見え隠れしていた。





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