Absolute03
【擬態──創られた空を舞う。穎才の拍動は高鳴りに焦がれるのか】
EP09-01
「ホムラちゃん、おはようございます」
「おはよう、アゲハ。アリスは? 一緒じゃないのか?」
アゲハは、私に向かってぺこりと頭を下げる。こんなやり取りを、一体何度繰り返してきただろう。
しかしそれも残り僅か。遅くとも三日以内に、アリスには
「アリスも居るよ? ほら、あそこ! 『走らなくてもホムラは逃げねえし──』って言ってた!」
アゲハの指差す方向を見やれば、いかにも気怠そうなアリスの姿。頭上に
「今日の講義はホムラちゃんかな? お絵かきもお喋りもしないけどねぇ」
アゲハの大きな瞳が、子犬か何かのように物欲しげに輝く。その瞳の中に映る私は、エメラルド色に染まった困り顔を浮かべていた。
「すまん。今日の受け持ちの中にアゲハの名前は無かった。それにアリスも」
つい先ほど、
「えーっ。じゃあせめてイマリちゃんが良いかな。テラくんとも全然一緒にならないし、何か最近つまんないんだよね……」
アゲハが思いつくままに挙げるイマリやテラの名前に、幽々たる後ろめたさを覚える。唇を尖らせるアゲハの髪の毛をくしゃくしゃと掻き回すと、それこそ彼女は子犬のようにじゃれついてきた。
「んー、なんか誤魔化されてねーか? アゲハ」
やや遠くから、棘のある言葉が投げられる。唇の端を吊り上げたアリスが、私の腰元に腕を回すアゲハを引き離した。
「ったく、相変わらずホムラは穴だらけだぜ」
「穴だらけってどういう意味よ。アリス、おはよう」
アリスはこれ見よがしの溜め息を吐いてから、いかにも面倒くさそうに「おはよ」と零した。それを見たアゲハの顔がぱっと明るくなる。
「ここのところテラは姿を見せねーし、ホムラに至っては毎日この辛気臭い顔。ひょっとして次の
欠伸を噛み殺しながらアリスが訝しむ。その言葉の裏側には、"どうか冗談で済んでほしい"という願いが込められているはずだ。この気怠い動作さえも、本心を隠すためのカモフラージュ──アリスはそんな女の子だから。
唇の端をきゅっと結んで、アゲハが考え込む仕草を見せる。ややあってアリスの言葉の意味を理解したらしいアゲハは、慌てた様子で私に問いかけた。
「ホムラちゃん、ホントなの? まさか……テラくんが居なくなっちゃう?」
大きな瞳に滲んだ雫を、私はそっと指で拭き取る。そして努めて平静を装いながら、目の前の天使たちに告げた。
「大丈夫、何の心配もない。テラの気まぐれはいつものことだろ? 誰も居なくなったりしないよ。ほら、私は
私の冗談になおのこと動揺するアゲハと、より一層険しい眼差しで私を観察するアリス。やがてアリスはやれやれと肩を竦めてから、「アゲハを余計に泣かせるつもりかよ」と私を咎めた。
「──すまない。私はもう少し冗談の練習をするべきだな。今度、ゆっくり教えてくれるか?」
「……うん。ほんとに冗談だよね? ホムラちゃん、居なくならないよね?」
再び泣き出しそうになるアゲハの肩を、アリスがそっと抱き寄せる。意外にさえ思える大人びた行動が、アリスの成長を強く意識させた。
──私の内側で、決意の炎が強く燃え盛る。
「はい解散。あなたたち、ホムラの邪魔をしないの」
良く通る声を張りながら、後方よりサヨさんが現れた。本当に私たちは、こんなやり取りを何度繰り返してきただろう。
凛とした歩調も、淡麗な顔立ちも──不機嫌さを隠そうともしない鋭い目付きも、全てが
「ホムラ、あなたもあなたよ。ここで
凍てついた声が私を導く。
その
「サヨさん、
薄ら寒い社交辞令と共に、私の内なる決意をサヨさんへ伝えた。私の受け答えを傍で聞いていたアゲハとアリスは、なぜだか目を丸くしてお互いを見つめ合っている。
「どうしちゃったの? ホムラちゃん」
「ホムラ、なんか気持ち悪いぞ」
どうやら私の演技力は、
「ホムラはこれだから困るわね。口先だけのお世辞よりも、私を唸らせるような
嘲笑を重ねながら、ふんっと鼻を鳴らすサヨさん。その鋭さが演技でなければ、私は気圧されて閉口してしまっただろう。
「私にお任せください。煙たがられるほどの
「ではこれからの私は、二度と
演技とは思えないほどの迫力と重圧を残して、サヨさんは颯爽と去っていく。いつもの芳香が、少しだけ遅れて鼻先に漂ってきた。ブレザーの裾を引かれて振り返れば、アゲハとアリスが複雑な表情を浮かべて私を見つめている。
「どうしよう。ホムラちゃんが壊れちゃった」
「あ、あのさ、何か悩みがあるならあたしが聞くぜ?」
戸惑いながらも私を心配してくれる二人に、なけなしの母性をくすぐられる。
彼女たちを慮る資格さえもない私は、せめてその資格を手に入れるためにやれることをやるだけだ。
「ありがとう。でも私の心配は無用だ──お前たちもしっかり学んでこい」
決して
「ホムラちゃん……なんか今日は本物の先生みたい」
アゲハの無邪気な発言が私を救う──救われた気になってしまう
「アゲハ、ホムラは先生だぞ。もちろん出来損ないの先生だけどな」
そう言った後で、アリスが小さくはにかんだ。私は思わず、アリスの小さな躰を抱きしめる。未熟なコンダクターとしてではなく、ただの一人の人間として。
「離せよ」と抵抗する彼女の後ろから、今度はアゲハが躰を寄せた。その二つのぬくもりは、私の決断に確かな"正しさ"を与えてくれるのだった。
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