EP04-05
誰よりも純粋で透明な魂は、ずっとずっと長い時間、苦しんでいたのだ。終わりのない自責の念に、果てのない自己嫌悪に。
アリスの亜麻色の髪を撫でながら、
「アリス、そのままでいい。そのままで聞いてくれ。──嫌わなくていいんだ。アリスはアリスを、嫌う必要なんてない。嫌うなら、世界を嫌えばいい。憎むなら、私を憎めばいい。その嫉妬も、その嫌悪感も、全部私に向ければいい。それはとても正当で、至極当たり前の感情なんだから──」
繊細なガラス細工に触れるように、首の座らない
だけど、これだけは言える。私は、愛しくて──目の前の存在が、肩を震わせるアリスが、愛しくて。どうにかして、慰めたかったのだ。図々しくも、救いたかったのだ。少しでも、笑って欲しくて、この小さな世界で苦しむ少女に、せめて笑顔で過ごして欲しくて。
「世界は間違ってる。この世界は、徹底的に間違っている。アリスの言うとおり、私は死神だし、傍観者どころか、加害者で──略奪者だ。そんな人間を妬んで何が悪い? 憎んで何が悪い?」
私は続ける。この両腕の中で、物言わぬまま震え続けるアリスへと。
「私の母さんは、世界の上澄みしか救わなかった。
「……はは、
アリスは顔を伏せたままで、呆れたような口調で言った。その
「
精一杯の冗談をアリスへと返す。心の深くに沈殿していく
「ホムラは、向いてないね。あたしはヒュムに向いてないけど、ホムラはこの仕事に向いてないよ」
少し落ち着いたのか、それとも何かが可笑しかったのか──そんな軽口が返ってきた。アリスは躰を捻らせて私を振り解こうとしたけれど、私は抱きしめる力を緩めない。
「ちょっと、離せよホムラ」
「いいや、離さない」
「本当に離せよ。
「しないよ、アリスはそんなことしない」
そう言ってアリスを抱きしめたまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。
彼女は私の肩に顔を預け、その表情を意図的に隠していたけれど、こっそり鼻をすすりながら、静かに泣き続けているのが伝わってきた。
その間ずっと、私はアリスの体温を感じていた。そしてアリスも、私の体温をずっと感じてくれていた。もしかするとアリスならば、私が内包する矛盾さえも、その卓越した感受性を用いて、自分の痛みのように感じていたのかもしれない。
世界が抱える矛盾を、自分の痛みのように考えていたのかもしれない。
私は思わず熱くなった目頭から、涙が零れないように必死に堪えていた。そしてそれ以上に「ごめん」という言葉が──気安い謝罪の言葉がふいに
謝っては、駄目なのだ。それではきっと、何も変わらない。それどころか、私が謝れば謝るほどに、アリスの苦しみは強まってしまうだろう。
だって私は、加害者の一人だから。そして加害者の私の立場は、これからもずっと、加害者のままに続いていくのだから──。
本当にどれくらい、そうしていたのか。長い時間を経てようやくアリスは落ち着き(それでも時折、ひっくひっくとしゃくり上げていたけれど)、気恥ずかしさを思い出したのか慌てて私の腕を振り解いた。発電区の頑丈な扉を背にして、再度居直る彼女。
ちょこんと膝を抱えて、私とアリスはまったく同じ座り方をしている。背中に感じるひんやりとした金属の温度が、今も変わらずに心地良かった。
しばらくすると、アリスがその小さな頭をこてん、と私の左肩に預けてきた。アリスの行動に少しだけ驚きながらも、決して表情や仕草には出さず、私はそのまま目を閉じる。
少なくともこうして並んで座っていられるくらいには、私とアリスの距離が縮まったのだと──そんなふうに前向きに捉えても許されるだろうか。何一つ解決しないけれど、今は安らぎを感じても許されるだろうか。
アリスの額に触れるその部分だけが、ほんのりと温かい。こうやって控え目に甘えているアリスは、刺々しさの欠片もない可愛らしい女の子だ。私は何だかよく分からない虚無感に包まれながら、背中のひんやりと、肩口のほんのりに、無言で呆けている。
「なぁ、聞かないのか?」
抜け殻みたいに動きを止めていたアリスが、ふいに口を開いた。抜け殻みたいにぐったりしている私の左肩に、その体重を預けたままで。
「ん? 何を?」
端的な私の反問は、自分でも驚くほどに優しい口調だった。こんなに柔らかな声が出るのか、私。
「あー、やっぱりホムラは馬鹿なのかもしれない。あのさ、このタイミングで現れたってことは、テラとすれ違ったんだろ? あたしたちが何を話してたのか、聞かないのか?」
ああ、そうだ。すっかり忘れていた。今度こそ本当に呆れたとばかりに、気怠げな表情を浮かべるアリス。その姿を横目に、テラの不敵な態度を思い返す。
確かに、何を話していたのか──でも今は、不思議とそれを聞く気分にはなれなかった。それどころか、さっきテラとすれ違ったこと自体が、すでに遠い昔のことのように感じられた。
アリスは、どうなのだろう。もしかするとアリスも、同じなのではないか。きっと今は、そんなことを話す気分じゃなくて、それでも私に気を遣って、仕方なしに話を切り出してくれたのではないか。
自分都合でアリスの気持ちを推測する自分が滑稽だった。たった一つ、今の時点でハッキリしていることがあるとすれば、アリスの言うように、私はコンダクターにはまるで向いていないということだ。
「聞かない。アリスだって年頃の女の子だしさ、それを尋ねるような不粋な真似はしないよ。私はただ──」
私だって年頃の女の子のはずなのに、一体何を言っているのだろう。急に老け込んでしまったかのような錯覚を覚えながら、何とか次の言葉を繋げようとする。
けれど、その続きを口に出来ない。「アリスのことが心配だっただけ」──ただそんな簡単な言葉が、どうしても言えなかった。
「ただ、何だよ」
そう言ってアリスは、頭をぐりぐりと捻って私の肩を揺らす。可愛らしいその仕草に、私の心は少しだけ救われたような気持ちを覚えてしまう。
「私は──テラはやっぱり、ロリコンなんだと思うことにするよ」
意味不明であろう私の冗談を受けて、「なんだそれ」と歯を見せて笑うアリス。その笑顔に、私の何かがまた救われてしまって、穏やかな安堵感の片隅で、自戒の念が私を締め付ける。
私は、テラがロリコンの可能性を八割から九割へと修正する。それ以上は何も聞かなかったし、アリスも何も喋らなかった。
決して息苦しくはないこの沈黙こそを、もしかしたら安寧などと呼ぶのかもしれない。
けれど、ふいに分からなくなる。
私はどうして、ここに居るのだろう。
この馬鹿げた楽園の中で、どうやって生きていくのだろう。
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