EP06-03





 淡い眠りの中だと、最初に気が付いた。

 

 緑色の風が吹き抜ける。

 生暖かく湿ったその風は、ママの体温のように私を撫でつける。中空から滑り落ちる大気が、じっとりと私に頬を寄せる中で、ママの柔らかな手のひらと、絹糸のように美しい金色の髪の流れを思い出す。

 失われてしまった美しさに──記憶から抜け落ちていく安らぎに、不鮮明な憧れを馳せている。


 あの夢の続きだと、やがて気が付いた。


 立ち昇る蜃気楼が、遠い日の出来事に手を振るように景色を揺らす。

 ママがくれた約束も、同じようにゆらゆらと揺れていた。

 ぼやけた景色に、滲んだ視界に、目を背けて別れを告げる。


 それでも私は──。


 覚束ない思考のどこかで、寄せては返す優しい声を聞く。

 まるで波の音。眠りに就けば、いつも。

 降り積もる濤声とうせいが私をくるんでくれる。


 だから、少しも怖くなかった。


 嘘。

 

 本当は、怖くて仕方がなかった。


 毎日のように、緑色の風を味わう。

 何度もこの場所に来ては、翠緑の風景を虚ろに眺めている。

 一人で在ることを忘れるためだったのかもしれない。

 一人で在ることを認めるためだったのかもしれない。


 終わりを感じたのは突然だった。息をするたびに鼻を突いていた深緑の匂い──やがてその匂いを感じなくなった頃だ。沈みかけた夕陽が背中を燃やして、私の翼は焼け爛れたのだと気付いた時だ。

 切り揃った前髪が、いつの間にか自然な形を取り戻していた。


 どんな傷跡にも、時間は流れているのだと知った。

 どんな傷痕でも、時間が浚ってくれるのだと知った。


 本当は、怖くて仕方がなかった。

 そう認めるだけで、私は歩き出せる。

 

 ママの居ない毎日に、私は立ち向かわなくちゃ。






 重力の流れに沿って、私の耳元へと流れ落ちる雫が、少しだけこそばゆい。そよとの風もない水面のように、胸の奥がしんと静まり返っていた。涙と一緒に、感情までも流れ落ちてしまったのだろうか。思考が定まるまでに、暫く時間を要した。


 時に近く、時に遠く、甲高い耳鳴りが続く。ゆっくりと目蓋を開き、焦点が定まるのを待った。毒気のない水色で塗られた仮眠室の天井へと、おもむろに右手を伸ばす。

 私のてのひら越しに見えるその水色は、拭い去れない絶望のように視界全体を覆い尽くしている。私の手は、虚空を握りしめた。


 この施設に空はない。空を知らずに生きて、空を知らずに死んでいく。それが至極当たり前で、自然の摂理なのだ。天蓋てんがいを覆い隠した水彩画の青空は、文字通りの絵空事。


 ──狂ってる。


 心の中でそう呟いてから、枕元のバレルバッグを引き寄せた。目線は天井に向けたままで、昇圧剤入りのキャンディを手探りで取り出す。普段の倍量を口の中へと放り込み、数種類の果実の味わいを舌の上で混ぜ合わせながら、もう一度目を瞑った。


 ──電子牢の天井は、何色に塗られているのかな。


 唐突にそんなことを思う。願わくば、気の狂ったような青空でないことを願う。

 永遠の非献体者エターナルチャイルドの瞳には、この世界は何色に映っていたのだろう。予定調和の世界で、望まずしてその歯車から外れてしまったテラの世界は、何色に閉ざされていたのだろう。


 自問する。


 もしも母さんが、その生命いのちを繋ぎ止めていたら。永久複製医療術Unlimited Medicalの恩恵によって、今も私のそばに居たならば──私はこの世界に何の疑問もいだかず、世界の仕組みワールド・サーキュレイションを受け入れていたのではないか、と。

 偽りの楽園に足を運ぶこともせずに、かりそめの安穏の中で幸せを噛み締めていたのではないか、と。


 "if"もしもの自分を思い浮かべて、吐き気をもよおした。背筋を走る悍ましい感覚は、私を奮い立たせるのには十分だった。


 ──私は、この昇華サブリメイションを阻止する。


 このDUMの深層部で、人知れず何かが起こっている。それは最早、疑いようもない事実だ。そして私が知ってしまった真実の断片フラグメンツたちは、知るべき真実の形フラグメントにはまだ遠く及ばないはずだ。


 "知るべき"とは何だろう。私はどうして、こんな感情に突き動かされるのか。

 自分を駆り立てる衝動の根源が、今一つ掴めずにいる。得体の知れないこの使命感は、私のどこから湧き上がってくるのだろう。


 贖罪のつもりか、断罪のげ替えか。

 博愛の真似事か、慈愛の延長か。

 あるいは、ただの自愛。


 それでも私は、真実を知りたいと思う。

 少なくとも私は、真実に触れていたいと願う。

 理解も納得も出来ないままに、アリスを失いたくはない。

 

 身勝手な欲求は加害者のエゴだ。自らへの免罪符ホワイトカードを求めるような偽善の上塗り。アリスにまた笑われてしまう。


 嘲笑が込み上げる。『ホムラは批判的意見テロリズムが目立つ』──そう言って呆れ返るアリスの姿が目蓋に浮かんだ。不思議と微笑ましい気持ちだ。

 勢い良く上体を起こし、目眩を振り払って立ち上がった。一瞬だけ視界が揺れる。さぁ考えろ。こんな私に何が出来る。


 真っ先に思い浮かんだのは、神奈木博士。政府が持て余す穎才ジニアスの力を借りる──それは第一候補キックオフにして最終手段ゲームセット。最善最短の好手でありながら、最低最悪の悪手であるように思える。


 生きる治外法権パブリックアウトロー──その二つ名にたがわない、自由奔放な振る舞いを見せる神奈木博士ならば、私の話に耳を傾けてくれる可能性は充分にあるのではないか。恥を忍んで神奈木博士へと頼み込めば、最悪でも道標の一つくらいは与えてもらえるのではないか。


 他力本願であっても、希望的観測に過ぎなくても、実行に移してみる価値はある。問題は神奈木博士の居場所だ。私は神奈木博士と巡り合う手段を有していない。


 非常勤とはいえ、DUM内に留まっているであろう彼女を、しらみ潰しに探すことは不可能ではないだろう。しかしそんな行動を取ってしまっては、"雪白ホムラが不審な行動を取っている"と騒ぎになるのは目に見えている。冷静にもなれず感情的にもなれず、どっち付かずの自分に苛立ちを覚えた。


 私よりも強固な対人関係ネットワークを築いているイマリならば、神奈木博士の居場所を知っているかもしれない。けれどイマリに尋ねるという行為は、彼女を巻き込んでしまう危険性も孕んでいる。

 神奈木博士の居場所をイマリが知っているとしても──イマリの性格を考えれば、明確な理由がなくては教えてくれないだろう。私が目的を話せば、イマリが全力で私を止めようとするのは火を見るより明らかだ。

 昇華サブリメイションを阻止したいだなんて、テロ行為以外の何物でもない。私は大切な友人イマリに、犯罪の片棒を担がせるわけにはいかない。


 となれば、頼るべくはサヨさんか。


 サヨさんは、神奈木博士に良い心象を持っているようには感じなかった。だからこそ、私が神奈木博士と関わることを嫌がる可能性は否めない。けれど、サヨさんは私の直属の上司なのだ。だから私の目的次第では、私的な感情に流されずに神奈木博士の居場所を教えてくれるのではないか。そう例えば、私がコンダクターとしての向上心のようなものを見せれば──。


 頭の中でシミュレーションしてみる。口下手な私が、私の目的を隠したままに神奈木博士の所在を聞き出すには、どういった話の流れが自然か。

 やはり、カウンセリングルームでの話の続きをしたいと訴えるのが一番だろう。不出来な部下が穎才ジニアスの思考回路に触発されて、哲学的思想マゴイズムをもっと学んでみたいという話の流れ──意外と悪くない。悪くないどころか上出来だ。


 しかしそこまで考えてから、私は自分の読みが全くの見当違いだという事実に思い至る。最後まで明言はしなかったが、私と神奈木博士の会話をモニターしていたのがほぼ確実なサヨさんだからこそ、表面上の取り繕いは通用しない。哲学的思想マゴイズムに興味を持ったのではなく、危険思想テロリズムに感化されたと身構えるのは必死。


 最悪の結果、サヨさんが私を告発するという展開も有り得る。規則や取り決めを遵守じゅんしゅするサヨさんに相談すること自体が、そもそも自殺行為に等しい。


 ──まったく、どこまで愚かなんだ私は。


 早くも八方塞がりとなって、思考の袋小路で懊悩する。どうして日頃から、もっと対人関係ネットワークを構築しておかなかったのだろう。気概だけが完全にから回ってしまう。私の心は、今も仮眠室で停滞し続けている。


 かくなる上は、ゲントク老師への直談判か。下手な小細工に頼らず、DUMの最高責任者であるゲントク老師の恩情に訴える──却下だ。私一人の意見で昇華サブリメイションの予定が取り消されるなら、とっくに天と地がひっくり返っている。


 形容し難い虚無感が、足元からじわじわと迫り来る。

 結局のところ、私には何も出来ないのだろうか。

 

 自問自答の果てに、自力で神奈木博士を探しに行こうと結論付ける私。その時、電書鳩クルックのコネクトを告げる振動バイブが響いた。携帯端末ワールドリンクを見やれば、サヨさんからの返信だった。


 講義を始める前に、サヨさんにコネクトしたのをすっかり失念していた。サヨさんの凛とした口調も、フニャフニャのオリジナルフォントになってしまえば緊張感に欠ける。それでも──。


 『今から出てこれますか?』


 という端的な文面には、緊張感を覚えずにはいられない。その末文には、エリア004から始まる住所アドレス添付クリップされていた。そしてもう一度、電書鳩クルックの通知。


 『必ず着替えてから来なさい』


 "今日は都合が悪いビジー・ナウ"という選択肢は、結局のところ考慮されていないみたいだ。唐突な氷の国への招待に、『すぐに向かいます』と電書鳩クルックを放つ私だった。






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