第10話 ガトー・バスクとローズヒップティ

「猛烈に食べたい!」と言う欲求が唐突に沸き起こる食べ物がある。

 その代表選手が、僕が小さい頃によくフランスのおばあちゃんが焼いてくれたガトー・バスク。

 何故だろう、同じように作っているのに、おばあちゃんの味と母の味と僕の味、全部違う。そしてダントツに美味しいのがおばあちゃんのガトー・バスクだ。

 母は「おばあちゃんのはサクランボが違うのよ。スリーズ・ノワールを使ってるんだもの」と言うけれど、それだけじゃないような気がする。

 母と僕はアメリカン・ダークチェリーを使う。けれども、母と僕でも味が違う。


 おばあちゃんはこう言う。

「食べる人を思い浮かべて作るんだよ」

 いつも僕にくれるから、僕の事を思い浮かべて作ってるんだと思っていた。勝手に思い込んでいた。


 おばあちゃんは数年前に天国に旅立った。

 最後に会った時に、おばあちゃんはもうそれが判っていたんだろう、僕にコッソリ教えてくれたんだ。

「美味しい料理が作りたかったら、一番愛する人の事を思い浮かべるんだよ。その人が食べるところを想像してね」

 そうか。

 おじいちゃんの好きな味だったんだ……くすくす。


 カスタードクリームを作りながら、そんな事をぼんやりと考える。

 サクランボはいつものようにアメリカン・ダークチェリー。僕は前の晩からラム酒に浸しておくのが好きなんだ。


「あたしはガトー・バスクにはハーブティを合わせるのが好きなんだけどねぇ」

「僕はミルクティの方が好きだよ」

 おばあちゃんがガトー・バスクを焼くと、僕はローズヒップティとミルクティを淹れるんだ。おばあちゃんがずっと綺麗だったのは、僕の淹れたローズヒップティの効果だと思いたい。

 ローズヒップは、あの実の部分が一番ビタミンが詰まってて、ティを飲んだ後に残る実を食べるのがいいんだ。おばあちゃんはちゃんとその辺を心得ていて、絶対に残さなかった。


 顔も手も皺くちゃになったけれど、いつまでもずっと美人だった。着られなくなった服を解いて、パッチワークにした手提げなんて持ち歩いていたけれど、それが凄くお洒落に見えた。自分で作ったドライフラワーを帽子に飾って、まるで少女のようにキラキラ輝いていたおばあちゃん。

 彼女をあれだけ輝かせていたのは、たった一人の男性だったんだ。そう思うと、おじいちゃんが少し羨ましい。


 型に敷いたバター生地にカスタードクリームを埋めていく。そこにラム酒漬けにしたダークチェリーを並べていくと、もう焼く前から美味しそうに見える。


「ああ、雨が降るねぇ。洗濯物を入れなきゃ。ちょっとクロード手伝って」

「なんで雨が降るってわかるの?」

「ほら、あの雲見てごらん。あの雲があの山の方に見えると、じきに降ってくるんだ。さぁさ、お喋りは洗濯物を入れてからだよ」


 当時、僕は「雨が降る雲」と呼んでいたんだ。

 その何年もあとに本で見つけて、それが乱層雲という雲だと知った。

 それまで「うろこ雲」だの「いわし雲」だのと呼んでいた雲たちが、何故この形になるのか、何故その高さにしかできないのか、知れば知るほど面白くなってきて、僕は科学にどっぷりはまってしまったんだ。


 それからは学校で習う事が全部面白くなった。

 何故フランスの気候と日本の気候がこんなに違うのか。どうしてフランスではワインがたくさん作られるのか。全部科学を通じてつながってるじゃないか。

 べちゃべちゃの生卵に火を通すと固まるのだって科学。シャボン玉の表面に虹が見えるのも科学、花火の色が綺麗なのも科学、生き物が冬眠するのも科学、ぶどうジュースがワインになるのも科学。


 型に入れたケーキ生地にフォークで模様を付けたら、オーブンに入れてあとは待つだけ。

 僕は今、誰を思い浮かべて作っているんだろう?

 律ちゃん、蒼さん、キアゲハさんにナミアゲハさん、ヤモリ君、人体模型君、こりす君と、それから陽向先生。えっ? 陽向先生? ……くすくす。

 一番なんて決められないよ、おばあちゃん。

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