第13話 編み物

 そろそろ毛糸の恋しい季節になって来た。

 これくらいの気温になるとあのウールの感触がどうにもこうにも愛おしいんだ。


 去年使わなかった毛糸を押し入れの天袋から引っ張り出してみると……うん、これだけの数があればセーター一着くらいは編めるだろう。黒に近い伯林青べれんす色の並太毛糸、針は八号かな?

 体温は首から逃げていくというのに僕は無駄に首が長いから、タートルネックにしようか。ああそうだ、腕も無駄に長いから、ゲージをとってから修正しないと。


 その前に例のカゴを出さなくちゃ。このカゴは編み物専用なんだ。

 編んでいる途中の棒が付いたままの毛糸や、これから使う予定の予備毛糸、それと目数リングに編み棒、かぎ針、とにかく一着作るために必要なものを全部ここに放り込む。あとはパッチワークで作ったカバーをふわりと掛けておけば完璧。


 ワクワクしながら編み棒やかぎ針、目数リングなんかを準備する。

 毛糸はヒメマルカツオブシムシの幼虫さんに食べられてしまわないように、ちゃんとパラジクロロベンゼン製剤で対策をとっておいたので、どっぷりこれの匂いがついてしまっている。

 ……蒼さんにまた「理科室の匂い」と言われてしまいそうだな……くすくす。


 しかしなんでまたこの薬品の香りは嫌がられるんだろう? 僕はパラジクロロベンゼンの香りもナフタレンの香りも大好きだ。ポケットに入れて持ち歩きたいくらい。

 じっくりじわじわと昇華するから、ヒメマルカツオブシムシの忌避もできて、しかもいい香りに癒されて一石二鳥なんだけれども、これを嫌う人の方が圧倒的に多いのでそれはちょっとできないかなぁ。

 それに、パラジクロロベンゼンが完全な無害とは言い切れないし。

 そういえばキュリー夫人はピッチブレンドをいつもポケットに入れて持ち歩き、そこからの放射線によって毎日知らないうちに少しずつ被曝していったって話だからなぁ。


 そんなどうでもいい事を考えながら、メリヤス編みのゲージをとっていく。

 ああ、一年ぶりだな、この感覚。やっぱり編み物は楽しい。いろんなことを考えながら黙々と編むのはなんて楽しいんだろう。パラジクロロベンゼンの香りに包まれて、なんだか幸せだなぁ。


 そういえば、衣替えのすぐあとに陽向先生が面白い事を言っていた。

「葉月先生、樟脳の匂いがしますね」

「え? そうですか、すみません。これでも二日干してから着たんですが」

「先生、樟脳って漢字で書けますか?」

「は?」

 出た! 唐突に話題を270度変更する!

「漢字ですか、どんな字だったかな。化学式でなら書けます」

「はい? 化学式ですか?」

「 C₆H₄Cl₂です。炭素が6個、水素が4個、塩素が2個」

「あの……葉月先生、くすのきに脳味噌の脳で樟脳ですよ」

「ああ、なるほど。クスノキの葉をちぎると樟脳のような匂いがしますね。それで樟脳か……今、また一つ繋がりましたよ。陽向先生は本当にいろんなことを御存じですね」

「はい? 漢字の話以外は全部葉月先生が仰ったんですけど」


 もしかして話題を270度ひっくり返していたのは僕の方だったんだろうか。まさか、今までも常に?

 うーん、何だろう。もしかしたら陽向先生よりも僕の方がいろいろ問題発言をしていたのかもしれない、そう思うとなんだか腰が落ち着かない。


「まあ落ち着けよ。コーヒーでも飲むか?」


 いつも冷静沈着な人体模型君に声をかけられてしまった。

 うん、確かにそうだ。落ち着こう。

 それにしても。あの先生、何だろうな、頓珍漢な事を言ってるようで、いろいろ気付かされる。実に不思議な人だな。もしかしてお釈迦様なんじゃないのかな?

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