第3話 フレンチ

 後頭部が痛い。お尻も痛い。肘も痛い。

 図書室で本を探していたら、踏み台の上でプルプルしながら背伸びをして、本棚の天辺の本を引っこ抜こうとしている陽向先生を見かけたんだ。

 この人の世話を焼くと大抵ろくなことにならないのは百も承知なんだけれども、なんというか『ほっとけないオーラ』全開なものだから、ついつい生徒も僕も手を貸してしまうんだよな……。


「僕が取りましょうか」

 声をかけただけなのに。そんなに驚くことですか、陽向先生?

 彼女は振り向きざま、奇怪な声を上げてバランスを崩して僕の方へ……。

 僕だって必死に抱きとめたんだけれど、何しろ僕は軟弱な上に校内一の運動音痴なものだから、彼女を支えきれずに一緒にひっくり返って、後ろの書架にしたたか後頭部をぶつけ、尻もちをつき、彼女の頭突きを胸に食らい、再び床に後頭部をぶつけたわけだ。


 図書室は騒然。生徒たちが集まって来て心配してくれる声が聞こえるんだけれど、その直後の陽向先生の言葉に僕は呆気に取られてしまった。

「あいたたた……葉月先生ごめんなさい。あ、なんかこのシチュエーション、良くありますよね。図書室で本を取ろうとしてひっくり返って、倒れた拍子にキスしちゃって恋が始まるっていう少女文学」

「キス……!」


 僕が壮絶に慌てふためいている事なんかまるで意に介さず「よっこいしょ」なんて起き上がって、僕の手を引っ張って起こしてくれたりするんだけれど、更にあっけらかんと追い打ちをかけるんだ。


「でも葉月先生はフランスの方だから、あいさつ代わりにキスとかなさるんでしょ。キスくらいじゃ恋は始まらないかしら」

「あの、僕はフランス人じゃなくて日本人です」

 何を言ってるんだ僕は? そこは多分論点じゃない。

「そうだったんですか。クロードさんだからフランス人だと思ってました。ああ、みんなごめんね、せっかく本読んでたのに邪魔しちゃって。葉月先生、大丈夫みたいだから」

 ……いえ、全然大丈夫じゃありませんよ! 痛いです!

「でも素敵ですね、学生のそういう話はあるけど、先生でそういう話はありませんからね。あ、そうだ、私がそういう小説書こうかしら。タイトルは『フレンチ・キス』。どうです、フランス人の先生と日本人の先生のお話、素敵だと思いませんか?」


 どうしてこの人はそういう事をけろっと言うんだろうか。僕はどう答えるのが正しいんだ?

 いや、それ以前に!

「陽向先生、生徒が聞いています。フレンチ・キスは……」

「え? だって軽くチュッて」

「ちょっと来てください!」


 ああ、今思えば適当に流しておけばよかったんだ。でも僕はそれができる性格じゃない。思わず彼女の上腕をつかんで図書室を飛び出してしまった。

「どうなさったんですか、葉月先生?」

「あのですね、陽向先生。フレンチ・キスというのは、その、あの、つまり、とても濃厚な接吻の事を言うんです。それを生徒の前で言うのはちょっと……」

「えっ! やだ、そうだったの?」


 と、そこまで来てはたと気付いた。生徒に聞かれないようにという配慮から、人気ひとけのない廊下の隅に連れてきてしまって、こんなところで何故僕はキスについての説明を真剣にしているんだ?

 陽向先生まで真っ赤になってるじゃないか、どうしたらいいんだこれ。

「あらやだ、国語の教師ともあろうものが、恥ずかしい勘違いを生徒の前で披露しちゃいましたね。これは後でちゃんと訂正しておかないといけないかしら」

「いえ! もうその話には触れなくていいと思います!」


 恐らく、後頭部の痛みより、お尻の痛みより、精神的な疲労が一番僕にダメージを与えているのは間違いないだろう……。

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