第54話 死せる者の場所


「ここは――」


 思わず声が漏れた。周りには真っ暗な空間が広がっている。

 目を凝らしても瞳には何も映らない。見えないだけではない。音も匂いも全く感じられない。まさに「漆黒の闇」という言葉がぴったりだ。


「――虚無の空間?」


 間違いない。私は虚無の空間にいる。無機質で殺伐とした雰囲気と息が詰まるような感覚は一度経験したら忘れるわけがない。


 しかし、なぜ私は虚無の空間にいるのだろう? 

 もやがかかったような頭で記憶の糸を手繰たぐり寄せてみた。


 カヲリの五感を正常回復するため、SJコンパートメントのショートした配線を握りしめて絶縁状態を作った。身体に激痛が走り意識を失いそうになった。

 結果として、カヲリを蘇生させることができた。しかし、感電防止のために手足に巻いたゴム手袋が、百パーセントに達する前にすべて溶解した。

 そのとき、電流が私の心臓に流れていたとしたら、致命傷を負っていても何ら不思議はない。


『虚無の空間は死後の世界とつながっているのではないか?』


 そんな考えが脳裏をよぎる。信じたくなかった。ただ、考えれば考えるほど理にかなっているような気がした。

 そうでなければ、私がここにいることはあり得ないから。


 身体の力が少しずつ抜けていく。この空間で気を抜けば闇に取り込まれてしまう。自我が崩壊して自分自身が消えてしまう。

 しかし、死人にとってはどうでもいいことだ。どうせ消えてしまうのだから。


 これで良かったのかもしれない。カヲリを守ることができたのだから。自分の意思で行動することができたのだから。

 私は自分を誇りに思う。清々しささえ感じる。こんな気持ちを抱いたのは生まれて初めてかもしれない。


「カヲリ、さようなら。幸せになってくれ」


 私はゆっくりと目を閉じた。


★★


「――見つけた」


 不意に背後から声が聞こえた。

 慌てて振り返ると、誰かが抱きついてきた。同時に、温かくて柔らかい何かが私の唇をふさぐ。とても心地良く、そして、とても懐かしい感触だった。


「村上さんが言ったとおりね。虚無の空間でもキスぐらいできるんだ」


 目の前にいる彼女は口角の上がった、美しい笑顔で言った。


「カ、カヲリ……? カヲリなのか!? どうしてこんなところに!? 虚無の空間から戻ったんじゃなかったのか!? まさか……戻っていなかったのか!?」


「そんなに一度に質問されても答えられないよ」


 かをりの身体はまばゆい、黄色の光を放っている。真っ暗な空間で顔がはっきり見えるのはそのせいだ。


「あっ、これ? 村上さんは『パンドーラ・エルピス』とか言ってた。あたしの精神エネルギーを光に変換したんだって……そんなにジロジロ見るんじゃないの! 今のカヲリさんは三十路みそじのおばさんなんだから!」


 唇をとがらせて、かをりは恥ずかしそうに目を逸らす。

 言われて見れば、SJWで会ったときよりも少し年を取った印象がある。


「深見くんが混乱するのも仕方ないかな……じゃあ、これまでのことを説明するね。ここは長くいる場所じゃないから手短に言うよ」


 大きな瞳でジッと見つめながら、カヲリは真剣な顔で続ける。


「あたしを蘇生する途中でSJシステムにトラブルが発生した。キミは自分を犠牲にしてあたしを助けてくれた。目が覚めたとき、キミは集中治療室の無菌装置の中で眠っていた。面会謝絶の状態だった。

 身体に電流が流れることによる電気裂傷。心室細動や内臓損傷に至らなかったのは不幸中の幸い。でも、キミの左手はひじから下の組織が完全に破壊されていた。そして、合併症による高熱が一週間続いて、キミは生死の境を彷徨さまよった。

 何とか峠は超えたけれど、キミの意識は戻らなかった。二週間経っても、三週間経っても、一ヶ月経っても戻ることはなかった。だから、あたしは『ある決断』をした。村上さんにはかなり反対されたけどね」


 私は状況を理解した。同時に、驚きを隠せなかった。


「それで……SJシステムを使ってキミと私の意識体を虚無の空間へ?」


「そう。だって、深見くんの意識を現実へ戻すには、SJシステムを使ってキミに接触して意識の正常化を図る必要があったから。村上さんは『フェイズ・スリー』と呼んでいた。

 SJWでキミと落ち合うのがベストだけれど、二人が同じSJWに行くのは無理。以前キミのSJWにあたしが入り込めたのは奇跡以外の何物でもない。だから、あたしたちの精神を虚無の空間の特定地点に送り込んだ。

 新型コンパートメントには帰還システムが備わっているから、あたしたちの座標は確認できる。そんなわけで、あたしは再びこの空間にやってきたの」


 淡々と話すカヲリに私は驚きを隠せなかった。

 自分を苦しめてきた元凶となる場所に再び足を踏み入れたことはもちろん、自分が置かれてきた、過酷な境遇をしっかり受け止めていたから。

 私が考えている以上に、カヲリは強くてたくましい女性だった。


「またキミに助けられた。これで何度助けられたかわからない。キミにはいくら感謝してもしきれない。ありがとう」


 カヲリは笑顔で首を何度も横に振る。

 しかし、視線が私の左手に向けられたとき、笑顔が消える。瞳から大粒の涙があふれ出した。


「ごめんなさい。あたしのために……あたしを助けるために取り返しのつかないことになってしまって。深見くんの未来を滅茶苦茶にしてしまって……あたしの左手をあげられたらいいけれど、村上さんから無理だと言われた。どうしたらいいか……どうすれば償うことができるのかわからない。深見くん、あたしはどうしたら……」


 責任感の強いカヲリのことだ。こういう展開になるのは予想がついた。

 見たところ私の左手は何ともない。それは私自身が左手を失ったことを認識していないからだろう。

 泣きじゃくるカヲリに私は飛びきりの笑顔を見せた。


「カヲリ、気にすることなんかない。あのとき少しでも躊躇ためらっていたら、キミとこんな風に話すことはなかった。それは、私にとって死ぬよりも辛いことなんだ。こうしてキミと再会できたこと、私はキミと神様に心から感謝している。

 それから、私の仕事はもう医者じゃない。『作家見習』だ。右手一本あれば文章は書けるしパソコンだって使える。あとは、優秀な編集者が優しく指導してくれたら言うことはない。将来大物作家になるかどうかはそんな編集者にかかっている……カヲリ、頼めるかな?」


「深見くん……」


 カヲリが私の胸に顔を埋める。私はかをりを強く抱きしめた。

 ぬくもりが身体の隅々まで行き渡り、私たちを包み込む、黄色い光が闇を切り裂いて広がって行く。

 二人でいれば、何があっても大丈夫だと思った。


「そろそろ戻ろう。村上が心配している頃だ」


「そうだね。村上さん、深見くんが戻ってくるのを首を長くして待ってるよ。彼が女だったら、間違いなくあたしのライバルになったと思うもん」


 カヲリの冗談交じりの言葉に苦笑しながら、私は左手の薬指を左肩の帰還装置へと近づける。


「カヲリ、一つ言い忘れたことがある」


「なに?」

 

 カヲリは薬指を左肩へ近づけながら小首を傾げる。


「私は四十五歳のくたびれた中年だ。どう見ても、キミとは釣り合わない……こんな私でもいいのか?」


「何を言うかと思えば、そんなこと?」


 カヲリは声をあげて笑った。


「もともとキミはおじさんみたいなしゃべり方だったから、違和感なんて全くないよ。そんなこと言ったら、あたしだって三十路のおばさんだよ。キミの方こそ、それでイイの? ダメって言われても『はい、わかりました』なんて引き下がらないけどね。箱根であたしにした、今でもできるよね?」


「た、体力が続く限りがんばってみる」


「期待せずにお待ちしていますわ」


 おどけた様子で「くすっ」と笑うカヲリに、私は真剣な表情で続ける。


「じゃあ、改めて聞いて欲しい。無事に帰還することができたら……結婚して欲しい。絶対にキミを幸せにする」


 カヲリは少し驚いたような表情を浮かべると、目を閉じて何かを思い出すような仕草をする。

 目を開けた彼女は、いつものように小首をかしげて笑った。


「こちらこそ、よろしくね。深見くん」



 つづく

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