第2章 Spirit Journey

第16話 1993年の朝ごはん


 ダイニングテーブルの上に一人分の朝食が並んでいた。

 キッチンの方から水が流れる音とラジオのDJと思しき声が聞こえてくる。先程聞こえたZARDの曲もおそらく番組の中でオンエアされたものだろう。父がいないとき、母はいつもFMラジオを聞いていた。


「おはよう。昨日も遅くまで勉強してたの? でも、こんな時間まで寝てたら目が溶けちゃうわよ」


 ご飯と味噌汁を運びながら、母がおどけた様子で笑う。


「わ、若い……!」


 思わず声が出た。当時の母は四十代半ば。現実の私と同じぐらいの年齢だ。

 母は眉間にしわを寄せて怪訝けげんな表情を浮かべる。


「真……あんた、熱でもあるんじゃない? それとも、何か欲しいものでもあるの?」


「いや、そんなんじゃない! 至って元気だし欲しいものなんて何もない! 嘘じゃない! 神様に誓ってもいい!」


「何大袈裟な言い方してるの? 早くご飯食べちゃいなさい」


 目の前にいるのは、どこから見ても私の母その人。SJシステムが作り出したノンプレイヤー・キャラクターNPCだとはとても思えなかった。


「いただきます」


 目の前に並んだ、和洋折衷わようせっちゅうの朝食に向かって手を合わせた。

 湯気が立ち上る味噌汁に口を付けた瞬間、驚きを隠せなかった。当時飲んでいた味噌汁そのものだったから。


 私が何かを口にした瞬間、その食べ物に関する無数の情報が脳に送られる。

 五感をつかさどる神経がその特徴を認識することで、それが何であるかを判断する。実際は食べてはいないが、食べた気になる。

 隣の皿はベーコンエッグ。カリカリに焼けたベーコンの上に半熟の目玉焼きが二つ乗っている。レタスとトマトで色どりがされているのも、当時のものが再現されている。

 半熟の卵を一つ潰してベーコンにつけて食べてみた。当時と同じ食べ方だ。次の瞬間、口の中に懐かしい味が広がる。ベーコンのカリカリ感まで再現されている。箸でつまんだベーコンを目の前でしげしげと見つめながら、私は感心するように首を縦に振った。


「どうかした? 変な味でもする? さっき焼いたから大丈夫だと思うけど」


「いや、変じゃない! 全然変じゃない! 母さんの料理がすごく美味しいからじっくり味わっていたんだ。だったから」


「久しぶり?」


「そ、そうじゃなくて……! 昨日の晩からかなり時間が経ったから、久しぶりに食べ物を口にしたって意味だよ! 久しぶりに幸せな気分になったってこと! あはははは!」


 私のリアクションがわざとらしかったのか、母は再び怪訝な顔をする。

 こんなことでホストコンピューターが私を矛盾因子と判断することはないとは思うが、とりあえず大袈裟に否定してみた。


「今日は土曜日だから父さんは部屋にいる……のかな?」


「学会の関係で木曜日からイギリスへ行っているじゃない」


「そ、そうだった! 父さんはイギリスへ行っているんだった! 学会だった! 勘違いしてた! 私も年かな?」


 私を見る母の目が不信感で溢れている。思わず話題を変えた。


「真知子は出掛けてるのかな? 休みの日にあいつが家にいるなんてあり得ないし。大学一年の遊びたい盛りだし。父さんがイギリスへ行っていたとき、確か真知子は友達と海へ出かけていたはず……いや、何でもない! 今のはひとり言! ひとり言以外の何物でもない!」


 当時の記憶を呼び起こしていたら、考えていたことをうっかり口に出してしまった。ただ、SJWが私の記憶をベースに作られているとしたら、私の言っていることはあながち間違っていないはずだ。


「真知子は相変わらずだけど、大学に入ったばかりだしね。昨日から海に泊まりに行ってるわ。でも、あんた、ずいぶん回りくどい訊き方するのね」


「いや、他意はない。断じてないから、気にしないで」


 母は首をかしげながらキッチンへ戻っていく。後ろ姿を目で追いながら、私は小さく息を吐いた。

 そのとき、「あるもの」が私の視界に入った。左肩に五百円玉大の黄色いホログラム――出発前に説明を受けた「帰還システム」だ。

 左手の薬指を近づけると、薬指の先が黄色に発光する。この状態でホログラムに触れれば帰還信号が発せられる仕組みだが、不自然に手を曲げないと触れることはできない。日常生活で誤って触れることはなさそうだ。


★★


 ふと当時の記憶が蘇った。

 父がイギリスから帰国したのは、それから数日後――国家試験の要綱が発表された日。医者になることが現実味を帯び、やりきれない気持ちを抱いた頃だった。

 ただ、私が自分の気持ちを表に出すことはなかった。抗ったとしても父に説き伏せられるのは目に見えていたから。「自分の可能性を試してみたい」。そんな台詞を繰り返したところで、父は聞く耳をもたなかっただろう。


 今回も父と一戦交えるつもりはない。大学・大学院に通いながら夢を追い求めるつもりだ。

 当時は、自分の研究のほか、国家試験や大学院進学の勉強で毎日が戦争のようだった。大学院へ進学してからも、研究室での研究と大学病院での診察でプライベートな時間は皆無だった。

 しかし、今の私であれば、「勉強」と名のつくものは不要だ。ほとんどのことは既存の知識でカバーすることができる。

 結果として、好きなだけ小説を書くことができ、書いたものを出版社へ持ち込むことができる。


 母の料理を味わいながら、テーブルの上の朝刊に目を通してみた。


・いざ夏の陣 第四十回衆議院議員総選挙 七月四日告示

・七月七日 東京サミットへ向けて 宮沢総理に聞く

・新たな横浜のシンボル誕生 横浜ランドマークタワー開業間近

・レインボーブリッジ 開通は八月二十六日

・ゼネコン汚職 仙台市長の次の逮捕者は?


 新聞の内容は一九九三年の出来事を忠実に反映していた。

 当時、毎日の新聞に隅から隅まで目を通していたわけではない。言い換えれば、この新聞は私の記憶をもとに作られているものではない。

 当時の新聞がしっかりでき上がっているのは、日々の出来事に関する膨大な情報が集められ、SJWへ反映されていることを意味する。


「ごちそうさま。美味しかった。ひと休みしたらちょっと出掛けてくるよ」


 とても仮想現実だとは思えなかった。第一印象は「素晴らしい」の一言。まさに私が求めていた世界だ。


 そのとき、脳裏に「あること」が浮かんだ。それはとても大切なこと。本来であれば、この世界に到着したとき、真っ先に確認しなければならないことだった。

 私は一目散に階段を駆け上がった。



 つづく

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