第41話 戦いの後


 かをりはカバンからペンと手帳を取り出した。

 室内には私たち以外に二人の看護師がいることから「取材」をするようだ。


 それにしても驚いた。かをりが嘘をついた。嘘をみ嫌い、他人を騙すことや自分を偽ることに嫌悪を抱いていた、あのかをりがだ。

 しかも、自分が誇りを持って取り組んでいる、雑誌編集の仕事を利用して他人をあざむくような真似をした。

 それは、かをりにとって、自己を否定する行為であって、屈辱的なことだと言っても過言ではない。


「では、取材を始めます」


 申し訳なさそうな顔をする私に、かをりは小さくウインクをする。


「十文字先生、深見さん、一つお願いがあります。あたしは医療については素人です。そこで、患者がどのような状態に置かれどのような治療を行っているのか、また、どのような薬品を投与しどのような効果を期待しているのか、解説をするように治療を進めてください。

 そうすれば、読者にとって共感が持てる記事になりますし、予期せぬ出来事が発生したとしても、証拠として残ります。そんなことはないとは思いますが、相手が新種のウイルスということで」


 私はかをりが何を考えているかを理解した。

 新種のウイルスに一介の医学生が立ち向かおうしているのは、客観的に見れば「無謀」といった印象を受ける。もちろん、かをりは私のことを信じてくれている。同時に「万が一のこと」も考えている。

 かをりは、医療事故が起きたとき、「病院側に過失がなかったこと」を立証しようとしている。私と十文字先生を守るためだ。

 しかし、そうなった場合、トワイライト編集部は取材の指示など出していないことから、かをりの立場は危うくなる。

 医療事故の調査委員会が立ち上がり、彼女が参考人として招致されたとき、嘘の取材をしていたことが発覚する。そうなれば、重い処罰が下されることは間違いない。場合によっては、今後編集の仕事ができなくなるかもしれない。


 はっきり言って、かをりはとんでもないことをやろうとしている。しかし、「やめろ」と言って「はい。わかりました」などと言う女ではない。

 今私がすべきことは、かをりを説得することではなく、一刻も早く患者を救うこと。そして、私のことを信じてくれた、かをりと十文字先生の期待に応えることだ。


「結構です。では、治療を始めます」


 かをりの言葉に小さく頷くと、私は治療に取り掛かった。

 子供の泣き叫ぶ声に混じってどこからかサイレンの音が聞えてくる。今日は事故や病気の大安売りでもしているのだろうか?


 手袋とマスクをめながら、保冷剤で子供の体温を四十度のラインに保つよう、看護師に指示をした。


「十文字先生、このウイルスは見た目とは異なり極めて脆弱ぜいじゃくです。ある状態を一定時間維持すれば完全に消滅します。ただ、そのメカニズムは明確になっていません。臨床実験を繰り返した結果、偶然見つかった治療法です」


「了解しました。それで? その対処方法は?」


「はい。この子は、ウイルスの影響で全身に激痛が走っています。激しく泣いているのはそのためです。結果として、過換気症候群類似の状態にあり、血液中のpHペーハー濃度は極度にアルカリ化しています。

 このウイルスは、アルカリ性が強い血液状態では活発化しますが、通常の状態では二十分も生き続けることはできません。もし解熱剤を投与すれば、一旦状態は落ち着きますが、ウイルスは勢いを盛り返しこの子は百パーセント死亡します。解熱剤を使えば取り返しがつかないことになります。

 そこで、子供のpHペーハーを酸性化する成分を投与します。十文字先生、エクシードを準備していただけないでしょうか?」


「わかりました。手配しましょう」


 私の説明に何の異議を唱えることもなく、十文字先生は薬事部に電話をかける。

 すぐに若い男性スタッフが薬品と注射器の入ったケースを持って現れる。十文字先生は薬品を男の子に投与した。

 見る見る間に男の子の顔色が良くなり、泣き声も小さくなる。

 男の子をうつ伏せにして肩甲骨けんこうこつのあたりを注意深く確認すると、オーロラ模様が薄まっていくのがわかった。触診したところ、幹部の温度も他の部分と変わらない。


 エクシードを投与して三十分が経過したが、体温は三十七度のラインに落ちついている。男の子は寝息を立てて気持ちよさそうに眠っている。もう大丈夫だ。


「エクシードと保冷剤が効いたようです。どうもありがとうございました」


 私は十文字先生と看護師に深々と頭を下げた。かをりもホッとした表情を浮かべている。いろいろな意味で緊張が解けたのだろう。


「どういたしまして。僕は見ていただけですよ。深見くんこそお疲れ様でした。僕もあのオーロラ模様のことは全く知りませんでしたが、君の説明からすると、かなり恐ろしいウイルスのようですね。ただ、患者は完全に回復したようです。君の処置が適切だったと言うことです。

 このウイルスとその対処法は世紀の大発見と言っても過言ではありません。これから、僕と看護師とでこの子を小児病棟へ移送する手続きをとります。お母さんも心配されているでしょうから、状況を説明しておきます」


 十文字先生は少し興奮した様子で「うんうん」と首を縦に振る。研究分野こそ違えど、医学に携わる者として何か心に響くものがあるのだろう。


「院長のところへ行って状況を説明してきます。白石先生がおかしな入れ知恵をする前に適切な報告をしておきます。僕が責任者として立ち会っているわけですから何も問題はありません。ウイルスの詳しい説明は要りません。治療法も偶然見つかったみたいですしね」


 十文字先生は、二人の看護師を連れて、男の子を乗せたベッドとともに治療室を後にした。


★★


「深見くん、お疲れ様。あの子、助かってよかったね……。不謹慎かもしれないけれど、さっきの深見くん、すごくかっこよかったよ」


 ペンと手帳をバッグに仕舞いながら、かをりは少し照れたような表情を見せる。


「かをりと十文字先生のおかげだ。キミたちにはいくら感謝してもしきれない。本当にありがとう」


「深見くん、ホントにそう思っているのなら、態度で示してもらおうかな。今日のランチは高級和牛のすき焼きをお腹いっぱい食べさせて。かをりさん、女優顔負けの演技をしたんだから、ギャラとしては安いものでしょ?」


 かをりはおどけた様子でペロッと舌を出す。そんなを見たら、ホッとしたのか、思わず笑みがこぼれた。


 部屋の扉が開いて、十文字先生が戻ってきた。


「岡安さん、お疲れ様でした」


 ポケットからクシャクシャのハンカチを取り出して汗をぬぐう十文字先生に、かをりはペコリと頭を下げる。


「もうこんな時間……岡安さん、昼食はどうされますか? よろしければ、そのあたりでごいっしょしませんか?」


「先生、ごめんなさい。検査の前にも言いましたが、これから深見くんとランチへ行く予定なんです。銀座で高級和牛をご馳走してくれるらしいんですよ」


 かをりはとびきりの笑顔を私に向ける――が、瞬時に笑顔が消え、何か恐ろしい物でも見るかのような表情が取って代わる。


「どうした? かをり」


「深見くんの身体……透けてる……」


 かをりが声を震わせる。

 洗面台へ走り寄った私は自分の姿を鏡で確認した。思わず息を飲んだ。かをりの言うとおり身体が透けている。鏡には、私の姿と背景とが重なるように映っている。


「先客があったのですね。それは失礼しました。『深見くん』というのは、岡安さんのお友だちですか?」


 十文字先生は、いつもの穏やかな表情でかをりに話し掛ける。


「そ、そうです! あたしといっしょに来た深見くんです! 先生、見てください! 深見くんの身体が透けているんです!」


 かをりはパニック状態に陥ったように大声で叫びながら、震える手で私の方を指差した。

 指先をしげしげと眺めた十文字先生は、眼鏡を外してハンカチでレンズをぬぐうと、眼鏡をかけ直して、かをりの方へ視線を戻す。


「岡安さん、そこには誰もいませんが……それに、今日の検査には岡安さんは一人で来られましたよね?」


 十文字先生は、私の存在を無視するかのように穏やかな口調で言った。

 サイレンの音がまた少し大きくなった。まるで、私の頭の中で鳴り響いているかのように。



 つづく

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