第27話 箱根へ行く前に


 いきなり箱根に誘うなんて唐突だっただろうか? 出会って二ヶ月も経っていないのに、遠出というのも非常識だったかもしれない。しかも、行く日を私が一方的に指定するというのは配慮が欠けているのではないか?

 横浜に出掛けたとき、かをりから「デートにおけるタブー」を指摘されたが、今回も厳しい指摘を受けそうな気がする。


「えっ、箱根……? 深見くんと二人で?」


 電話の向こうから驚いたような声が聞えた。どこか引いているような様子が感じられる。唐突過ぎたのかもしれない。断られても仕方がないと思った。


「うれしい! 深見くんといっしょにお泊まりで旅行に行けるんだ。ロープウエイからのパノラマの景色は最高だし、東京と違って空気も澄んでいるから星もよく見えるよね? それに、箱根と言えばやっぱり温泉! 貸切温泉がある宿を予約すればいっしょに入れるよ。すごく楽しみ。五日が原稿確定日だから十日の金曜日ならいけそうだよ。がんばってお休み取るね」


 その瞬間、私は電話の内容が誰かに聞かれていないか確認していた。

 戸の隙間からダイニングの様子を覗き見ると、父と母はテレビを見ながらお茶を飲んでいる。妹の真知子は二階の自分の部屋にいるはずだ。


『ほかに家族はいないよな? 大丈夫。うちは四人家族だ』


 そんな自問自答をしながら私はそっと和室の戸を閉めた。

 口から心臓が飛び出すかと思った。その衝撃たるや、初めてNLノーザンライトに遭遇したときに匹敵するかもしれない。


 そんなにあっさりOKしていいのか? しかも、私からは「泊まり」などということはひとことも言っていないのに、いつの間にかそういうことになっている。さらに「温泉にいっしょに入る」という言葉が聞こえたような気がした。


「深見くん、小田急のロマンスカーなら新宿待ち合わせでいいよね? 時間と場所はどうしようか?」


 かをりは既に当日の待ち合わせの話をしている。相変わらず展開が速い。タイミングを逸しないうちに「例のこと」を言っておかなければいけない。


「箱根までは二時間ちょっとみておけば大丈夫だ。午後二時ぐらいのロマンスカーを予約しようと思ってる。ただ、その日の午前中、いっしょに行ってもらいたいところがある。都内で昼食を食べる予定だ」


「昼食もいっしょなんだ。うれしいな。深見くんが行きたいところってどこなの?」


 声のトーンからかをりのテンションが上がっているのがわかる。このタイミングであれば、すんなり受け入れてくれるかもしれない。受話器を遠ざけて大きく深呼吸をした。


「東都大学付属病院の脳神経内科に十文字先生という、その道の権威がいる。先生の診察を受けて欲しい。デリケートな部分に触れることだから抵抗があるのはわかっている。でも、このまま放っておくわけにはいかない。

 自分なりにいろいろ考えた。その結果、十文字先生の診察を受けるのがベストだという結論に達した。先生は温厚で誠実な人だ。医師としてだけでなく、人としても信頼できる」


 二人の間に沈黙が流れる。重苦しい空気が漂っている。口をつぐんでしまったところをみると、かをりは戸惑っているのかもしれない。


「な~んだ。箱根は病院へ行った良い子に対するお駄賃だちんみたいなものなんだ」


「そんなんじゃない! かをりをどこかのんびりできるところへ連れて行ってあげたいと思ったんだ! それで、いろいろ考えたら、昔行ったことがある箱根がいいと思って……もちろん、日帰りで考えていた……いや、泊りが嫌だというわけじゃない。星を見たり温泉に入ったりするのも楽しそうだ。キミといっしょに箱根に泊りで行けるなんてすごくうれしい。

 のんびりすることで、かをりの症状が良くなるんじゃないかと思った。ただ、そこは私にははっきり言えない。ひょっとしたら逆効果になることだってある。だから、箱根へ行く前に専門の医師の問診を受けるべきだと思った……いっしょに十文字先生のところへ行ってください! お願いします!」


 思わず大きな声が出た。自分でも動揺しているのがわかった。話す内容は事前に頭の中で整理したつもりだったが、支離滅裂しりめつれつになった。


 電話の向こうで微かに笑う声がした。


「……キミの話を聞いて、誰よりもあたしのことを心配してくれているのがわかった。不安な気持ちを何とかしようと一生懸命考えてくれているのがわかった。深見くん、ありがとう。

 正直言うと、あたし、自分の過去を知るのが怖い。あたしの中にいる、もう一人のあたしがどんな人なのかを知るのが……それに、昔のことを思い出した瞬間、あたしが彼女になっちゃうような気がして……」


「かをり、大丈夫だ。脳神経の分野において、十文字先生は日本一信頼できる先生だ。これまで数えきれないぐらい、たくさんの患者を治療してきた。それに、私も医者の端くれだ。いっしょにいれば少しは役に立てる。かをりの不安が消えてなくなるまでいっしょにがんばるよ」


 再び沈黙が訪れる。しかし、それは前回ほど長いものではなかった。


「あたしね、横浜へ行く前は『もうがんばれないかも』って思った。でも、あの日、深見くんと話をしたら『この人を信じてもう一度がんばってみよう』って思えたの。だから、キミの言うことはどんなことでも信じる。キミを信じることで上手くいくような気がする。もちろん、悪い結果が出ても恨んだりしない。それでダメなら諦めもつく。あのときは妄想に負けちゃったけれど、これからは絶対に負けない」


 かをりの声に力強さが感じられる。まるで何かの決意表明をしているようだった。


「深見くん、一つお願いがあるの」


「なに?」


「当日どんな服装で行くのか、事前に教えてくれない?」


 何かと思えば他愛もないことだった。私が二つ返事でOKすると、かをりはうれしそうに電話を切った。

 何はともあれ、かをりが病院へ行ってくれることになった。本当に良かった。

 脱力感を覚えた私は畳の上に大の字になって、しばらく天井を眺めていた。


★★


 次の日、当日のロマンスカーと宿の予約をするため新宿へ出掛けた。

 午後二時十分新宿発箱根湯本行きのチケットを二枚確保した。平日の昼間ということもあってロマンスカーはガラガラ。

 宿もロマンスカー同様に余裕があり、今風のリゾートホテルからわび・さびが感じられる、ひなびた温泉宿までより取り見取りだった。かをりが他人に気兼ねなく入れるよう、貸切温泉のある宿を探した。結果として、リーズナブルな料金で趣のある宿を確保することができた。


 ロマンスカーを下りて箱根登山鉄道で三十分程行ったところに「宮ノ下」という駅がある。宿はそこから五分程歩いたところ。「自然を満喫することで都会の喧騒けんそうを忘れられる」というのがうたい文句で、温泉に入りながら、川のせせらぎや小鳥のさえずりを楽しむことができる。


 宿泊客は五十分間無料の貸切温泉サービスを受けることができる。箱根の景色を見ながら入浴することができる、高台にある露天風呂を予約した。

 食事も朝夕とも自室で食べられるということで他人の目を気にすることもない。ここならかをりも心身ともにリラックスできると思った。


 二日目は、芦ノ湖まで足を伸ばしてロープウェイでパノラマの景色を眺めるのもいいし、近くの強羅公園でハーブに親しんだり、彫刻の森美術館で絵画や彫刻を観賞するのも悪くない。スケジュールは当日決めても十分間に合うので、かをりの意見を聞いてから決めることにした。


 かをりは、月刊トワイライトの編集者として、紀行文のようなエッセイも執筆している。観光については私よりもずっと詳しいだろう。もしかしたら、箱根の常連かもしれない。

 ただ、仕事で訪れるのとプライベートで訪れるのとでは気分が全く違う。かをりにゆっくりしてもらうことを第一にエスコートしようと思っている――とは言いながら、私自身、これまで感じたことのない高揚感を抱いている。


 九月十日は、長い一日になりそうだ。



 つづく

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