第28話 眠りに向かう時間
★
九月九日の夜、私は小説専門誌「イージー・ゴーイング」の編集長から依頼された小説のプロットをチェックしていた。
かをりの意見を訊こうと横浜に持参したが、アクシデントがあったことで、まだ陽の目を見ていない。ただ、頭の中で文章のイメージはできているので、かをりからOKが出れば一ヶ月程度で形にする自信はある。
タイトルは「
舞台は明治期の日本。欧米各国と結んだ不平等条約の撤廃が、近代化を目指す日本にとって最大の悲願であり、そのためには、日本が文明国となったことを欧米各国に理解してもらう必要があった。
一八八三年、日本国政府は外国人を接待するための施設・鹿鳴館を建設し「鹿鳴館外交」と称した対欧米外交政策を展開する。
国の命運を左右する重要な政策を、日本政府は万難を排して精力的に取り組み、結果として、欧米各国からも高い評価を得る。事態は順風満帆のように思われた。
しかし、外国人を招待した夜会の最中、奇妙な事件が起きる。
トイレに立った女性がなかなか戻って来ないため、連れの女性が様子を見に行ったところ、鍵がかかった個室の中で「胎児」が死んでいるのが発見される。
胎児の周りには、夜会の華やかなドレスや靴、帽子、バッグなどが散らかっており、それはいずれも、トイレに立った女性が身につけていたもの。便座には「
前代未聞の怪事件の発生に鹿鳴館に
三日後、ゲストルームでポーカーを楽しんでいた四人の外国人のうち、二人が突然苦しみ出し、間もなく死亡する。死因は「溺死」。
目撃者の話では、水差しの中の水がまるで生き物のように二人に襲いかかり、鼻と口を覆い気道を閉塞したとのこと。水差しには「
外務卿(外務大臣)・
最初は、彼らの行動を
悩んだ末、彼は「切り札」を投入することを決意する。
外務省には、日本の近代化推進の障害を一掃するため組織されたある部署が存在した。その名も「外交政策局調整課総務係」。表向きは省内の備品の納入や職員宿舎の管理などを行っているサポート部署だが、彼らには裏の顔があった。
人知を超える、特殊な知識や技術を有する、五人の職員。ただ、大人しく言うことを聞くかどうかは気分次第。そんなところから、彼らは「
華やかな鹿鳴館を舞台に、日本国政府の転覆を図ろうとするUNOとそれを阻止しようとするGOD KNOWSとの戦いの幕が切って落とされる――神のみぞ知る、
できあがったプロットを旅行カバンに詰め込んでベッドに横になった。
明日は、九時前に御茶ノ水にある附属病院へ行って、十文字先生の診察の順番を取る。事務員に確認したところ、「診てもらえるのは早くても十時三十分以降」とのこと。かをりには十時十五分に来るよう言っておいた。
もし診察の結果が深刻なものだったら、箱根行きどころではなくなる。しかし、そのときはそのときだ。まずは、かをりに何が起きているのかをはっきりさせる必要がある。それがわからないことには先に進めない。
ゆっくり目を閉じると、少しずつ意識が遠のいていく。
この状態が数分続いた後、記憶の残らない時間帯が訪れる。これが、SJWにおける「眠りに向かう時間」。そのことに気付いたのはつい最近だ。
もともと現実世界の私は眠った状態に置かれている。SJWでは眠ることはなく、コンピューターが私に眠ったような感覚を植え付ける。
一定時間起きていると身体が疲れを感じて睡眠欲が生じるが、それもコンピューターが作り出した仮想現実に他ならない。
いつからか、私はそんな時間を使って思いを巡らすようになった。
今夜も様々な思考が私の脳裏を駆け巡る。
★★
SJWは、現実世界に存在する事実情報とプレイヤーの潜在意識の中に格納されている記憶情報をベースに、SJシステムが生成した仮想世界。
時折プレイヤーが過去に経験した事実と異なる出来事が発生するが、それは、当人の思い違い、または、ホストコンピューターがSJW内の矛盾を修正した結果として生じたもの。
SJWをRPGに例えるなら、自らの意思で自由に冒険することができる主役のプレイヤーは私。その他はすべて
「その他大勢」がどんな動きをしているのかは把握していないが、私が把握していないだけであって、もともと身分や性格づけはなされている。私が彼らに接触した時点でそれが明らかになる。
ホストコンピューターが矛盾を修正するとき、NPCであれば記憶の操作やキャラ自体の消去といった手段がとられるが、プレイヤーである私がどのようなやり方で修正されるのかは定かでない。
ただ、論理的矛盾を野放しにすることはないため、かなり荒っぽいやり方が予想される。もしかしたら、かをりの記憶が失われたのも、そんなホストコンピューターの働きかけが関係しているのかもしれない。
仮に、私が「現実世界の岡安かをり」のことを知っているとしたら、SJシステムが私の記憶を読み取って「SJWの岡安かをり」を再現することができる。しかし、私は彼女とは面識がない。穿った見方をすれば、彼女の忌まわしい記憶は、何らかの矛盾を修正するために植え付けられたものなのかもしれない。
現実世界には、かをりのオリジナルが存在する。一九九三年に二十五歳と言うことは、生きていれば私より年上だ。
私が一旦現実世界へ戻って、かをりのオリジナルの素性を調べれば何かわかるかもしれない。ただ、この世界を離れることで私の存在自体が消される可能性があるため、その選択はリスクが大きい。
以前かをりに確認したところ、二十歳以前の彼女を知っている人間には会ったことがないと言っていた。また、夕日出版社に採用されたときの記憶も残っておらず、気が付いたら月刊トワイライトの編集担当になっていたらしい。
履歴書の過去の部分が未記入の女性を大手出版社が採用すると言うのは、現実世界ならあり得ない。しかし、ここは現実世界の常識が通用しない。考えるだけ時間の無駄だろう。戸籍についても、本籍や父母の名前など肝心なところはすべて「不明」と書かれていたらしい。
★★★
JR中央本線・御茶ノ水駅の改札を出て、三分程歩いたところに東都大学医学部付属病院がある。
時刻は午前八時三十五分。診察開始までまだ二十五分あるが、待合室には診察の順番を待つ人の列ができている。
飲み終わった缶コーヒーをごみ箱に捨てると、私は列の最後尾に並んだ。事務員が「診てもらえるのは十時三十分以降」と言っていたのも頷ける。
カウンターの上には「本日終了しました」という文字の書かれた案内表示が掲げられ、カウンター内側の事務室では事務員が慌ただしく準備を行っている。
午前八時四十五分になると、計ったように事務員がカウンターに座り受付が始まる。人の列が見る見る間に短くなっていく。
私が予約表を手渡すと事務員はコンピューターを操作する。「脳神経内科:十文字卓人⑧」と書かれた打ち出しを「岡安かをり」と書かれた診察券といっしょに透明のクリアファイルへ入れる。それを脳神経内科の受付へ提出するよう言われた。
脳神経内科は、階段を二階へ上がって廊下を突き当たったところ。もちろん場所は頭に入っている。
クリアファイルを受付へ提出した私は、近くの長いすに腰を下ろした。そして、カバンから「UNO」のプロットを取り出す。
目を閉じて細かい部分の構想を巡らしてみたが、眠りに向かう感覚は微塵もない。前日六時間眠ったことで、コンピューターが「眠りに向かう時間」を適用しないのだろう。院内はとても静かで構想を練るのには持って来い。私は時間を忘れて脳内作業を続けた。
――コツコツコツコツコツコツ――
病院の廊下を歩く足音が聞こえる。少しずつ大きくなり、私が腰掛けている長いすの前でピタリと止まった。
「深見くん、おはよう。お待たせしました」
つづく
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