第29話 避暑地のお嬢様


「深見くん、おはよう。お待たせしました」


「おはよう……」


 かをりの声を聞いて目を開けた瞬間、言葉を失った。

 目の前にいるかをりが、イメージしていた彼女とは違っていたから。

 かをりはすっかり「箱根モード」になっていた。


 ノースリーブの花柄のワンピース。つばの狭い麦わら帽子。帽子と同じ素材のストローバッグ。かかとが上がった、白いサンダル。

 派手さを感じない自然なメイクで口角をあげて微笑む表情に、健康的な可愛らしさが感じられる。

 まさに「都会から避暑地に遊びに来たお嬢様」という形容がぴったりで、頭の先からつま先までしげしげと眺めてしまった。

 周りの視線もかをりに集まっているが、それは仕方のないこと。派手さはないが、良い意味で目立っている。


 一昨日電話で話したとき、当日の服装の話題が出た。九月と言っても箱根の最高気温は三十度近いことからラフな服装を提案した。

 私の服装は明るいチェックのボタンダウンにベージュのチノパン。いつもと代わり映えしない。また、気温が下がることも視野に入れて薄手のニットを持参するように言った。

 ただ、これほど服装を合わせてくるとは思わなかった。横浜のときは「お嬢様と使用人」だったが、今回はカップルに見えるのではないか?


「どうしたの? 鳩に豆鉄砲を喰らったみたいな顔して。かをりさんの顔に何かついてる? この格好おかしい? 深見くんの服装をイメージして、昨日自由が丘で選んできたんだけど……」


「そ、そんなことない! すごく似合ってる! リゾート地に遊びに来た都会のお嬢様って感じ! 言うことなしだ!」


 病院にいることを忘れて大声をあげてしまった。あちこちから鋭い視線が飛んでくる。それは、先程かをりに向けられたものとは全く違う。


「ホントに? 深見くんにそう言ってもらえるとうれしい。がんばって選んだ甲斐があったよ」


 かをりが満面の笑みを浮かべたとき、脳神経内科のアナウンスが流れる。


『岡安かをりさん。岡安かをりさん。五番の診察室へお入り下さい』


 時刻は十時三十五分。予想していたよりも早く順番が回ってきた。


「かをり、準備はいい?」


「うん。大丈夫」


 受付の脇を通って中に入ると細長い通路に一番から十番までの表示がされたドアが並んでいる。五番の診察室の前に立ってドアをノックした。


★★


「どうぞお入りください」


 中から聞き覚えのある声がした。


「優しそうな声だね」


 私の耳元でかをりが小声でささやく。軽く目配せをして、私はドアの取っ手を手前に引いた。


「おはようございます。失礼します」


「はい。おはようございます」


 恰幅かっぷくの良い医師がにこやかな表情で私たちを迎える。

 十文字先生と会うのは、かれこれ十五年ぶり。年齢は現実世界の私より少し上だが、生き生きとした表情は私よりもずっと若く見える。これが村上の中の十文字先生のイメージなのだろう。


「どうぞお掛けください。これはこれは綺麗なお嬢さんですね。そんな綺麗な方が今日はどうされましたか? おっと失礼。まずはお名前の確認が先でした。患者に見惚れて初歩的なミスを犯すなんて僕は医者失格ですね」


 十文字先生の屈託のない笑顔と巧みな言葉遣いに、かをりはように笑った。


「では、改めまして『岡安かをりさん』でよろしいですね?」


「はい。岡安です。本日はよろしくお願いいたします」


 十文字先生に向かってかをりは深々と頭を下げる。


「君が深見くんですね?」


 十文字先生の視線が私の方へ向けられる。自分でも緊張しているのがわかった。


「はい。東都大学医学部六年の深見と申します。突然申し訳ありません。以前先生の講義を受けたことがあり、著書も読ませていただきました。

 私の専攻は免疫学・感染学ですが、脳科学を専攻する友人から先生のことを聞いて、ぜひ彼女を診ていただきたいと思いました。どうかよろしくお願いいたします」


「いえいえ、謝ることなんかありません。僕は医者です。医者が患者を診るのは当たり前のことです。君もお父さんからそう言われませんでしたか? 僕は深見先生の足元にも及びませんが、患者さんと接するとき、僕なりにいつも心掛けていることがあるんですよ」


 十文字先生は白衣のポケットからくちゃくちゃのハンカチを取り出すと、眼鏡を外してレンズを拭った。


「それは、いつも患者さんと目線を同じにすることです。そうじゃないと、患者さんも本当のことが言いづらくなりますからね。治療していくうえでキーになるような大事なことを聞き洩らしては意味がありません。僕たち医者のミスであるとも言えます。上から目線の治療は大きな弊害を招きます。百害あって一利なしです……。ごめんなさい。いつの間にか講義をしていました。深見くん、岡安さん、改めてよろしくお願いします」


 眼鏡をかけ直した十文字先生はペコリと頭を下げる。かをりの穏やかな表情から、リラックスしているのがわかる。


「それでは、岡安さんが辛いと感じていること。悩んでいること。具体的に『こうありたい』と思っていること。どんなことでも結構です。僕に教えてください。言いづらいこともあるかと思いますが、できるだけ詳しく教えていただけるとありがたいです。それが効果的な治療につながります。

 それから、脳神経内科の壁は分厚いので他の部屋に声は聞えません。言わずもがなですが、個人情報を口外することも一切ありません」


 かをりは真剣な眼差しを十文字先生に向ける。そして、淡々と話し始めた。


 自分には二十歳以前の記憶がないこと。複数の男にはずかしめられた記憶があること。それが眠っているときだけでなく目が覚めているときも発現したこと。苦しくて堪らなくなって山下公園で自殺を図ろうとしたこと。

 かをりは十文字先生にこれまでのことを包み隠さず説明した。目に涙をためながら毅然とした態度で説明した。

 そのときのかをりはとても立派で、私は心から敬意を表したいと思った。


 かをりの一言一言に「うんうん」と頷きながら、十文字先生は右手を忙しそうに動かす。カルテに刻まれたドイツ語はカルテ数枚に及んだ。


「先生、お願いです。彼女を治してあげてください」


 会話が途切れるのを見計らって、私は十文字先生に深々と頭を下げた。


「彼女はとても素晴らしい女性です。嘘や偽りが嫌いでいつも真っ直ぐな気持ちを持っています。それでいて、とても優しい気持ちを持ち合わせています。そんな彼女がこんな酷い目に合うのは納得がいきません。何とか彼女を……かをりを助けてあげてください。お願いします」


「顔を上げてください。深見くん」


 十文字先生は再び眼鏡を外してハンカチでレンズを拭く仕草を見せる。

 フッと息を吐いてメガネをかけ直すと、穏やかな口調で続けた。



 つづく

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