第30話 ロマンスのありさま
★
「病気を治すのは医者としての責務です。しかし、世の中には僕たちの力が及ばない手強い奴らも存在します。そんなときはどうすればいいか?
医者には二つのタイプがいます。一つは、既存のやり方を試してダメであれば早々と白旗をあげるタイプ。もう一つは、決して諦めず新たな方法を試してみるタイプ。もちろん人様の命を預かっているわけですから、思い切ったことをするにはメリットとデメリットを
ですが、苦しんでいる患者を目の前にして白旗をあげるというのは、いかがなものでしょう? 苦しんでいる人たちに『がんばろう』と思わせるのも医者の大切な役割だと思うんです」
私は「そのとおり」という言葉を飲み込みながら頷いた。
十文字先生は穏やかな笑みを浮かべる。
「『脳神経』の領域は『精神』の領域と併せて考察していくべきだというのが僕の持論です。精神の世界は目で見ることはできません。複雑に入り組んでいて、そのメカニズムは簡単に解明できるものではありません。だからと言って、何もしなければ進歩はありません。では、どうすればいいか?
次の世代にしっかりと引き継ぐんです。『僕が解明できなかったことも、いつか優秀な研究者が霧のかかった世界に
話が横道に逸れてしまいました。岡安さんの苦しみを百パーセント取り除けるかどうかはわかりません。しかし、ここで白旗をあげるのは僕の主義ではありません。医学界に輝かしい歴史を作ってきた、深見くんのお父さんやお祖父さんに鼻で笑われるのは勘弁してもらいたいですしね」
十文字先生は外した眼鏡に息を吐きかけ、ハンカチで拭った。
「岡安さんには、これからごく一般的なカウンセリングを受けてもらいます。今日の診察はそこで終わりです。よろしければ、来週の十七日金曜日、朝いちで再診の予約をとってください。僕流のやり方で岡安さんの精神面――意識の世界の検査を行いたいと思います。安全な検査ですので心配はご無用です。もちろん深見くんも同席してもらって構いません。
ただ、安全であるというのは精度が低いことの裏返しです。今後の治療について有益なデータが得られるかどうかはやってみなければわかりません。『苦しみを百パーセント取り除けるかどうかわからない』と言ったのはそういうことです。検査を受けるかどうかはあなた方が決めてください」
十文字先生は本物の医師だ。こんな人に教えを
温厚な表情と静かな口調は、患者の気持ちを落ち着かせるだけでなく、患者に病気と闘う、強い気持ちを起こさせる。十文字先生の中にある、熱い思いがそうさせるのだろう。
「自分でもよくわからないのですが、一人ではできないことでも深見くんといっしょならできるような気がするんです。実際に彼はあたしの命を救ってくれました。そんな彼がこんなに信頼を寄せている方なら、すべてをお任せしてもいいと思っています。来週の検査の件、どうかよろしくお願いいたします」
かをりは深々と頭を下げた後、視線を私の方に向けていつもの笑顔を見せた。ホッとしたのか、私の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
そんな私たちの様子を眺めながら十文字先生は満足げに首を縦に振った。
★★
病院を出たのは十二時三十分。九月に入っても気温は三十度を超え、コンクリートジャングルには夏の陽射しが降り注いでいた。
右手を太陽に
「どうしたの? 何だかうれしそうだね」
私の視線を感じたのか、かをりが小首を傾げて笑う。
「いや、何でもない。それよりお腹空かない? 新宿への移動は昼食を食べてからにしよう」
「うん。そうしよう。もうこんな時間だもん。お茶の水だと……そこに『
私が空腹感に襲われたのは、ホッとしたからに他ならない。私たちは、かをりから提案のあった店で昼食をとることにした。
★★★
昼食後、新宿へ移動するためJR中央線に乗った。
私の荷物が小さめのスポーツバッグ一つなのに対し、かをりは海外旅行へ出掛けるようなキャスターつきのキャリーバッグ。荷物の量が私の倍以上ある。
「一泊なのにすごい荷物だ。何が入ってるの?」
「深見くん、女はね、二十四時間生きて行くのにいろいろと必要なものがあるの。男の人が知らなくていいものもある。あまり突っ込まないように」
電車が新宿駅に到着する。ドアが開いてたくさんの人がホームへ降りていく。人の流れに流されるように私たちもホームへと降り立った。
「かをり。荷物を持つよ」
私は自分のバッグを左手に持ち変えて、かをりの方に右手を差し出した。
JRからロマンスカーに乗り換えるには、何箇所か階段を上り下りしなければならない。一九九三年にはバリアフリー対策はほとんど施されていないため、これだけの荷物を持って階段を上るのはかなりの重労働だ。
「ありがとう。だから好きよ。深見くん」
かをりはキャリーバッグを私に預けながらうれしそうに笑った。
行程にかなり余裕を持たせたつもりだったが、小田急線のホームに到着したのは午後二時過ぎ。ロマンスカーの発車まで十分を切っていた。
私たちが乗車する特急はこねは、以前乗ったものとはデザインが変わっていた。
当時は、鮮やかな朱色の車体に白いラインが入っていたが、今回は、白と青の車体に赤いラインが入っている。先頭車両の二階建て構造もなくなり、私の抱いていたイメージとはかけ離れたものだった。
車両に乗り込んだ私は、かをりを窓際の席に座らせ、彼女の右隣りに腰を下ろした。
「ねぇ、深見くん? ロマンスカーは、どうして『ロマンスカー』って言うか知ってる?」
かをりの唐突な質問に私は首を横に振る。
「じゃあ、教えてア・ゲ・ル。昔の電車は、向かい合わせの四人掛けの席が一般的だったけれど、それだと、カップルで旅行するときなんか、乗り合わせた人の目が気になってプライベートな話ができないよね? そこで登場したのが『ロマンスシート』を備えたロマンスカー。
ロマンスシートって言うのは、簡単に言えば、回転可能な座席。普段は全座席が進行方向に向いていて、必要に応じてシートの向きを百八十度変えられるの。今は新幹線や特急でもそれが当たり前になったけれど、先駆けはロマンスカーだったの。ロマンスシートの発明は素晴らしいと思う。だって、プライベートな空間が確保されることで二人の距離がグッと縮まるんだもん」
「勉強になったよ。でも、詳しんだな。小田急に取材したことでもあるの?」
「常識よ。常識」
かをりが得意げな表情を見せたとき、発車を告げるベルが鳴り終わり、私たちを乗せたロマンスカーは新宿駅を出発する。
かをりは、薄手のニットを脱いで膝の上に置いた。二の腕とワンピースの胸元が露わになる。下に付けている黒っぽいインナーがどこか艶めかしい。
「深見くん、早速ロマンスしちゃった?」
私の視線に気づいたのか、かをりは流し目で私を見る。
「ロマンスする? どういう意味?」
「知らないの? 『ドキッとした』ってことだよ」
「そんなことない! 気のせいだ!」
心を見透かしたような、かをりの一言に、思わず声を荒らげた。
「でも、はじめて聞いた。『ロマンスする』なんて言葉」
冷静に振舞おうとする私に、かをりはしたり顔をする。
「当たり前だよ。だって、かをりさんが今作った言葉だもん」
かをりは私の左腕に両手を絡ませて、上目遣いに私のことを見た。
無邪気な笑顔が私の左肩のあたりにある。そして、左ひじには柔らかいものが当たっている。
『かをり、十分ロマンスしてるよ』
心の中で
つづく
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