第10話 雨中二人


 その日は、朝からずっと冷たい雨が降っていた。


 斎場の住所を十文字先生から聞いた私は、場所を地図で確認した。

 一旦家へ帰って喪服に着替えて最寄駅に到着したのが午後六時。駅から斎場までは歩いて十分程度と聞いていたが、雨脚が強かったためタクシーを拾った。


 市営の斎場は二階建てで小ぢんまりとした造り。薄暗い場所に建ち雨に打たれているせいもあって、とても古めかしく見えた。

 大小いくつかの部屋はあるが、入口の案内表示は「村上家通夜」のみ。人の姿がほとんど見られないのは、冷たい雨が降っているせいだけではなかった。


 案内に従って一階の突き当りの部屋へ行くと、十畳ほどのこじんまりとしたスペースに祭壇が置かれていた。

 喪服を着た、葬儀屋の男性スタッフが供花を飾っている。話をしたところ、参列者は私が初めてで、喪主である村上は五分程前に部屋を出て行ったとのこと。

 仕方なくその場で待つことにした。


 三十分が経ったが、村上は戻ってこなかった。親族もいないようで参列者も依然として私一人。静かな室内に窓や壁を打つ雨の音が響き渡る。不安な気持ちが高まり居ても立ってもいられなくなった。私は村上を探しに部屋を後にする。


 二階へ上がったが、通路以外は電気が消えており、人の気配は感じられない。

 仕方なく上ってきた階段を下りる。踊り場の窓から外に目をやったが、相変わらず激しい雨が降っていた。


 そのとき、私の目に信じられない光景が飛び込んで来た。


 駐車場の隅に喪服を来た男が立っている。大雨の中、傘も差していない。外灯に照らされた、その横顔は私がよく知っているものだった。

 階段を駆け下りた私は、傘立てに置かれた傘を無造作につかんで一目散に駐車場へと走った。


「村上、こんなところで何してるんだ? びしょ濡れじゃないか。風邪を引く。早く中へ入ろう」


 俯き加減の村上の背中から傘を差しかけた。暗がりのせいか、その顔はひどく疲れているように見えた。


「深見……わざわざ来てくれたのか……悪かったな」


 焦点の合っていない眼差しを私の方へ向けると、村上は弱々しい声で言った。

 私が知っている村上とは別人だった。彼の受けたショックがどれほど大きなものであるのか理解できた。


「私の方こそ勝手に来てごめん。でも、キミのことが心配だったんだ。お母さんが病気だったことも知らなかったし、病状がひどいことも知らなかった。ごめん。本当にごめん」


 口から何度も謝罪の言葉が漏れた。近くにいたのに気づかなかった自分が情けなかった。気付いたとしてもこの状況を回避できたわけではない。ただ、何かできることはあったはずだ。

 「私は村上の友達なんかじゃない。友達面をしているだけだ」。そんな言葉が脳裏を過る。目に涙をためて歯を食いしばりながら、村上が濡れないように傘を差し続けた。


 そんな状態がしばらく続いた後、村上の口から言葉が漏れる。


「……俺はもともと父親がいなかった。お袋が女手一つで育ててくれた。お袋は昼も夜も働いていた。俺は中学を卒業したら仕事についてお袋に楽をさせたいと思った。でも、お袋はそれを許さなかった。高校はもちろん大学へも行くよう言われた。そのために一生懸命働いて金を貯めたと言った。俺は必死に抵抗したが、お袋はガンとして譲らなかった」


 雨がさらに強くなる。遠くで雷鳴が轟いている。


「深見、以前、俺が医者になった理由を訊いたよな?」


 村上の唐突な質問に、私は無言で首を縦に振る。


「あのとき、俺は『金と女』と言ったが、半分はマジだった。たくさん金を稼いで今まで苦労をかけたお袋に楽をさせてやりたかった。医者になればそれが可能だと思った。

 医学部に行く金はなかったが、特待生になれば授業料が免除されると聞いた。結果的に思惑通りにことが運び、俺は大学を卒業したら医者になろうと思った。しかし、大学三年のある日、状況が変わった。俺が医者を目指す理由が変わったんだ」


 村上と私の白い吐息がゆらゆらと立ち上っていく。それらは私たちの頭上で交わると闇の中へ溶けるように消えていく。


「お袋が倒れた。病名は脳梗塞。無理をしてきたのが祟ったとしか考えられなかった。一命は取り留めたが、そのときからお袋は植物状態になった。

 俺はお袋を回復させたい一心で何とかしてくれそうな医者を血眼になって探した。ただ、そんな医者は見つからなかった。だから……俺が治すしかないと思った。

 一番可能性が高いのが十文字先生の教えを請うことだと思い東都大の大学院に進学した。しかし、現段階では治療法は確立していなかった」


 雨の降りがさらに強くなる。横殴りの雨が音を立てて私たちの身体を打ち付ける。


「一週間前、お袋の容体が急変した。昏睡状態に陥り、今日の早朝に息を引き取った……俺はお袋を救えなかった。苦しんでいるお袋の力になれなかった。受けた恩を少しも返すことができなかった……情けない。こんな情けない奴は世界中を探したって俺だけだ。

 俺は医者を目指す理由がなくなっちまった……深見、もしお前にあのときと同じ質問をされたら、俺は何と答えたらいい? 教えてくれ……教えてくれよ! 深見!」


 村上の顔に、やり場のない、怒りと悲しみがいっしょになったような表情が浮かぶ。全身から悔しさが滲み出ているのがわかった。


 掛ける言葉が見つからなかった。慰めの言葉や励ましの言葉を言ったところで、何の意味もなさないと思った。

 ただ、私がここに来たのは、村上のことを指を咥えて見ているためではない。村上の力になるためだ。

 私はこれからもずっと村上の友達であり続けたい。困っているときに何もできない奴が友達であるはずがない。


 まばゆい閃光が走った。一瞬間が空いて雷鳴が轟く。

 大雨の中、自分の息遣いと心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。「このままでは村上がダメになる」。頭の中でそんな声が聞こえた。


「村上、キミが医者を目指す理由はまだある……。お母さんを苦しめた病気をやっつけるんだ。治療方法を見つけるんだ」


 半ば無意識の状態で、そんな言葉が飛び出した。


「キミの悲しみと怒りは痛いほど伝わった。私は思った。キミが抱いた悲しみや怒りを誰にも抱かせてはいけないと。この世から消し去るべきだと。

 キミならやれる。絶対にやれる。もし壁にぶつかることがあったら、私が力を貸す。一人でできないことでも二人でならきっとできる。

 このまま負けたまま終わるのは悔しいじゃないか? 負けたままのキミを見るのは……死ぬほど悔しいよ!」


 堰を切ったように涙があふれ出した。

 言っていることは支離滅裂だった。ただ、このまま終わらせたくなかった。絶対に終わらせるわけにはいかなかった。


「……深見、いい年して大泣きしてるんじゃない。このバカが。そんなバカだからお前にはまともな友達がいないんだよ……お前の友達はバカばっかりなんだよ」


 村上が声を詰まらせる。顔を上げた私の目に、雨と涙で顔がぐしゃぐしゃになった村上の姿が映る。


「お前の情けない顔を見ていたら、俺もすごく悔しくなってきた……やってやる。絶対にやってやる!」


 冷たい雨は一向に止む気配はなかった。

 そんな中、私たちは全身ずぶ濡れになりながら、いつまでも笑いながら泣き続けた。



 つづく

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