第36話 もうひとつのSJ
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日 時 一九九三年九月一七日(金)午前八時三十分
場 所 東都大学医学部附属病院脳神経内科特別治療室
内 容 潜在意識に係る臨床検査
被験者 岡安かをり
実施者 十文字卓人
立会者 深見真
私とかをりが治療室に入ると十文字先生が笑顔で迎える。
スタッフは先生以外に四名。男女二人ずつで年齢は二十代から三十代といったところだ。
「では、検査内容について説明します。その前に本日のゲストの確認です。『岡安かをりさん』です。個人的に『被験者』という言葉は好きではないので、あえてそう呼ばせてもらいます。どうぞよろしくお願いします。
岡安さんには、先週の金曜日、簡単なカウンセリングを受けてもらいました。その結果を踏まえて本日の検査に臨みます」
十文字先生は、フラットファイルに綴じられた、検査結果と思しき資料をパラパラと
「カウンセリングの結果、『過去に経験した事象及びそれに付随する事象の記憶に関する呼出し障害』と『就眠状態又は覚醒状態において自らを心理的に追い詰めるような記憶の反復発現』といった、二つの症状が見られました。
これらの症状から、ある事象が発生したことにより、それ以前の記憶が抜け落ちて記憶を呼び出すことができなくなっている『逆行性健忘』と、ある期間の出来事が思い出せないものの一部の知識は失われていない状況、つまり『全健忘に近い部分健忘』が疑われます。そこで、本日は両方のケースを想定した、精神医学的なアプローチを試みます。ここまでよろしいですか? 岡安さん」
かをりは少し緊張した面持ちで首を縦に振る。
十文字先生が行っているのは、いわゆる「インフォームド・コンセント」――これから行う治療の方法や効果、その危険性や他に選択可能な治療法などを、患者目線で分かりやすく説明し治療に関する同意を得るものだ。
二十一世紀においては当たり前のこととなっているものの、一九九三年当時は「患者は黙って医師の言うことに従うべき」との風潮があり、このような対応に時間を割く医師はほとんどいなかった。
「それでは、具体的な進め方を説明します。まず、ゲストの心身の状態を落ち着かせるため、入眠剤を服用してもらうとともに音楽を聞いてもらいます。一種の催眠状態を作り出すわけです。
その後、精神疾患の治療に用いられる、頭部への通電によりけいれん発作を誘発する手法『電気けいれん療法』の原理を応用したSJを使って脳の波長を引き出します。SJとは『Subconcious Judge(潜在意識の審判)』の略称です」
一九九三年には、もう一つのSJが存在した。
SJというネーミングは村上のオリジナルだと思っていたが、そうではなく、恩師である十文字先生に敬意を込めたものだった。SJというイニシャルありきで適当な単語を当てはめたのだ。村上ならやりかねない。
SJWにおける十文字先生のキャラクターの構築には、村上の記憶も取り入れられているが、その人格だけでなく研究手法や研究成果まで事細かに再現されている。
「次に、この検査の意義と効果を説明します。人の感情は『喜・怒・哀・楽』の四つに分類することができますが、人がそれぞれの感情を抱くとき、感情特有の精神波が発現します。僕たちは、そのうち『喜』・『怒』・『哀』の三つをモデル化するとともに、それぞれの波長を導き出すためのアンチモデルを構築しました。
三つの波長のアンチモデルを用いることで、その人の潜在意識に眠る記憶の一端を呼び起こすことができるのです。ただし、あまり負荷が大きくなると精神に障害を来たす恐れがあることから、アンチモデルの使用は一時間を限度とします。
また、波長を微弱な状態に抑えることから、意図した結果が得られないこともあります。先日『精度が低いのでデータが得られるかどうかわからない』と申し上げたのは、そういうことです。ただ、ゲストの安全を第一に考えれば、それは仕方がないことだと思っています。ここまでよろしいですか? 岡安さん。質問があれば遠慮なくおっしゃってください」
かをりは再び首を縦に振る。
十文字先生はテーブルの上のカップのコーヒーを少し口に含む。
「誤解しないで欲しいのですが、今回行うのは『治療』ではなく『検査』です。ある記憶を恒常的に引き出された状態にするものではありません。あくまで、潜在意識を探って記憶を引き出し、病気の原因となっている可能性のある事象を分析するものです。この検査により『記憶が戻る』とは考えないで下さい。
また、これまでの検査結果から……と言っても、データが少ないので確信は持てませんが、岡安さんの悪夢が発現する際、その前後にヒントとなる事象が存在することが考えられます。ビデオの映像と音声、それに、収集された生理的データを後日分析したいと思います。
以上で説明を終わりますが、岡安さんと深見くん、何か質問はありますか?」
十文字先生は温厚な眼差しをかをりに向ける。そして、ポケットからくちゃくちゃのハンカチを取り出して眼鏡のレンズを
「どうもありがとうございます。素人のあたしにも理解できる、とてもわかりやすい説明でした。実は、こちらに来るまで少し不安な気持ちがあったのですが、今は先生のことを百パーセント信じてお任せしようと思っています。一つ質問があるのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
「検査時間は一時間ということでしたが、検査が終わってしばらくは目が覚めないのでしょうか? 日常生活に支障が出るのでしょうか? と言うのは、せっかくお休みをもらったので深見くんと二人で出掛けようと思っているのですが……」
「寝耳に水」の話だった。かをりが私の方を向いてペロリと舌を出す。
「なるほど。岡安さんの中では午後のプランができあがっているわけですね。検査が終わってすぐに起こしてさしあげても構いませんが、一時間ぐらいは目が覚めないでしょう。今日一日は薬が効いているので気だるい状態が続きます。医者としては、自宅にもどってゆっくり休むことをお勧めしますが、デートの予定があるということであれば、それは
深見くん、いつ彼女が眠ってもいいように、しっかりエスコートしてあげてください。こんな回答でよろしいですか? 岡安さん」
かをりの「かをりらしい」質問と十文字先生の「十文字先生らしい」回答により、治療室の重苦しい空気が一変した。かをりの表情もさっきより柔らかくなっている。
「では、これよりゲスト・岡安かをりさんのSJ検査を始めます」
★★
入眠剤を服用したかをりはベッドの上で眠っている。
隣に置かれているベッド大の機器はSJシステムの本体。数本の配線がかをりの方へ伸び、頭部と胸のまわりに電極のようなものが据え付けられている。
現実世界の私もSJシステムのコンパートメントの中で配線だらけの状態になっていることを考えると、不思議な巡り合わせを感じる。
十文字先生のことを信頼していないわけではないが、気持ちが不安定になっているのかもしれない。
後ろから右肩をポンと叩かれた。
振り向いた私の目に、自分の肩を上下させてリラックスするよう
「現在の時刻を確認のうえ記録装置の作動を開始してください。ゲストの状態はOK? アンチモデル照射準備はOK? では、「タイプJ」・「タイプA」・「タイプS」、それぞれの照射を開始してください」
治療室に唸るような重低音が響く。SJ検査が始まった。
十文字先生は機器のデータとかをりの様子を交互に見ている。その鋭い眼差しは先程とは別人のようだ。
二十分が経過した頃、変化が現れる。
かをりが何かを話し始めた。しかし、内緒話をするような、小さな声であるため聞き取ることができない。
十文字先生がスタッフにマイクボリュームを上げるよう指示する。ノイズに混じって英語と思しき言葉が聞こえてくる。かをりの表情は穏やかで、声はとてもうれしそうだ。
そんな状態が十分ほど続いた後、「Thank you」と「
さらに十分が経過した頃、今度は悲しそうな表情が浮かぶ。同時に、喉の奥から絞り出すような悲痛な声が発せられた。
「……あなたのこと、キライなわけがない……でも……あなたの顔を見るのがツライ……どうすればいいの……?」
十文字先生はスタッフにマイクボリュームを上げるよう指示する――そのときだった。
「いやぁぁぁぁぁ!」
廊下にも聞こえそうな、大きな声が室内に響き渡った。
かをりの目から涙が溢れ出し、その声はすぐに金切り声へと変わる。
十文字先生はかをりの基礎データを確認すると、スタッフと短い会話を交わして小さく頷く。金切り声が響き渡る中、検査は続行された。
首を激しく左右に振りながら、かをりは言葉にならない言葉を発する。見ているのが辛い光景だった。
そのとき、私は自分の耳を疑った。
なぜなら、信じられない言葉を耳にしたから。
その言葉は、十文字先生やスタッフにも聞こえたはず。しかし、「信じられない」と思ったのは私だけ。それには強い確信があった。
「……憎い……殺してやる……ノーザン……ライト……」
かをりは言った。「
つづく
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