第37話 彼女のコトバ
★
かをりの口から「ノーザン・ライト」という言葉が発せられた。
私は自分の耳が信じられなかった。あり得ないことだったから。
NLウイルスの症例が最初に確認されたのは二〇〇〇年。今私がいるSJWは現実世界で言えば一九九三年。NLが存在するわけがない。
これまでかをりにNLの話をしたことはない。他の者に対して口外したことも一切ない。
もしかしたら、かをりが口にした「ノーザン・ライト」はNLウイルスとは別のものを指しているのかもしれない。
ただ、「憎い」とか「殺してやる」といった言葉により敵意を
「深見くん、どうかしましたか?」
私の異変を感じとったのか、十文字先生が心配そうな顔をする。
「普段と違う岡安さんを見て不安になるのはわかります。しかし、これはあくまで想定の範囲内です。彼女の安全は僕が保証します。それから、彼女の苦しみは決して無駄にはしません。必ず治療の手掛かりを見つけてみせますよ」
いつもながら十文字先生のフォローは適切だ。言葉を掛けられた瞬間、気持ちが楽になった。
「僕の持論ですが、医師は、常に患者の気持ちを理解して治療に当たることが大切です」
再び十文字先生の目が鋭さを増す。
「患者には『愛情』をもって接しなければいけません。しかし、時として『非情』に徹することも必要です。愛情と非情――二つは相反するものですが、医師が治療をするうえでどちらも重要なファクターです。なぜなら、医師は一つでも多くの命を救う義務があるからです。
ある妊婦さんがいたとします。彼女は身体が弱く正常な分娩が難しい状態にあります。しかも、お腹の中にいる赤ちゃんの発育もよろしくない。そんなとき、突然陣痛が始まった。
母子ともに助けようとすれば、どちらの命も危険に
もちろん、その前提として『冷静』であることが必要です。自分を見失ってはいけません。『どんなときも冷静であれ。そして、愛情を持って非情であれ』。僕がいつも自分に言い聞かせている言葉です」
十文字先生は淡々と話しているが、その言葉はとても重い。
私たち医師は常に世界で一番重い物を背負っている。それは言わずと知れた「人の命」。
私たちの手の中にあるときのそれはとても
実際そんな状況に出くわしたことがないわけではない。やり場のない怒りがこみ上げ、深い悲しみと絶望が重く圧し掛かった。あの感覚はしばらく消えることがなかった。
選択ミスがすべて医療ミスというわけではない。最善の策を施した結果は法廷で裁かれるものではない。しかし、後になって「あのとき、別の手法を選択していれば結果は変わっていたのでは?」と自問自答することがある。
冷静で非情になること――それは、機械的な対応をするコンピューターに近づくことを意味するのかもしれない。ただ、愛情を持って接するというのは、意思を持たないコンピューターには無理な話だ。
SJWのキャラクターはホストコンピューターの制御のもと、AIにより独自の人格や感情を持ち合わせている。
そういう意味では、目の前にいる十文字先生の言葉は、現実世界にいる、オリジナルの彼が発するもの以上に説得力がある。
★★
私はかをりの様子を
しばらくすると、叫び声が収まり表情も穏やかなものへと変わっていく。
私は
かをりの両目がカッと見開いた。その瞳には一点の光すら宿っていない。
焦点を失った、虚ろな眼差しが
喜怒哀楽といった感情が微塵も感じられない。恐れや悲しみといった負の感情もあるだけマシだと思った。
人にあって人にあらずの状態。感情が消え失せた、人の抜け殻。人に似せて作られた、ただの人形――次から次へと悲しい形容が浮かんでくる。
息が詰まりそうな重い時間が流れる。
見ているのがとても辛い。検査を中断すれば、いつものかをりに戻るだろう。しかし、それでは何の解決にもならない。
私が目の当たりにしているものこそ、これまでかをりが独りで背負ってきた、悪しき現実。私にはそれをしっかりと見届け、取り除く義務がある。
十文字先生は、報告書と機器を交互に見ながら、四人のスタッフに慌ただしく指示を送る。
しばらくすると、かをりの目がゆっくりと閉じる。
とてつもなく長く感じられた時間だったが、実際は三分も経っていない。
かをりは安らかに眠っているように見えた。言い換えれば、人間らしい表情を取り戻していた。
緊張感が解けて身体中の力が抜けていく。
かをりの表情も穏やかで柔和なものへと変わっていた。不意に彼女の口から言葉が漏れる。
「深見くん……大好きだよ……幸せだよ」
十文字先生は言った。「医師はどんなときも冷静であれ」と。
しかし、私は冷静ではいられなかった。
十文字先生が私の肩に軽く手を添える。
「そろそろタイムアップです。検査はここで終了します。深見くん、これからも彼女のことを頼みます。キミの協力があれば、きっと彼女の病気は良くなります」
私は顔を上げることができず、黙って頷くのがやっとだった。
つづく
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