第38話 いつか見た情景


 治療室から出た途端、激しい脱力感に襲われた。

 廊下の長イスに腰を下ろした私は、イスの背に両手を掛けて身体を仰け反るように天井を見上げた。


 十文字先生の話によれば、今回の検査は成功の部類に入るとのこと。

 その理由は三つ。一つめは被験者の安全が確保できたこと。二つめは検査が最後まで実施できたこと。三つめは呼び起こした記憶を記録できたこと。


 かをりは一時間ほど眠らせておくこととなった。その間にスタッフが検査後の状態をチェックするらしい。

 かをりの起床予定時間は十一時三十分。目覚めた瞬間、空腹によるブーイングが起きることが想像できる。彼女の喜びそうなランチをピックアップしておくことが、私が取り組む最優先事項だ。


 それはさておき、今回の検査でかをりが見せた表情や発した言葉はあまりにも衝撃的で、しばらく頭から離れそうにない。


 最初に発現したのは、英語のスピーキングと自分のことを「カヲリ・ハートフィールド」と名乗ったこと。

 これは、箱根で彼女がネイティブと言ってもおかしくないような流暢りゅうちょうな英語を話したことからも想像がつく。過去に英語圏の国に滞在したことがあるのだろう。ただ、その経緯については全く見当がつかない。


 次に、苦しそうな声で発した言葉――「嫌いではないが顔を見ると辛い」というメッセージ。内容からすると恋人にあてた言葉のように思える。

 かをりに恋人がいたのはある意味ショックだが、冷静に考えれば、かをりほどの女性が二十歳まで何もない方がかえって不自然だ。これについても具体的なことはわからない。


 そして、NLの名前を出して嫌悪感をあらわにしたこと。

 NLに対して憎しみを抱く理由は、NLにより身近な子供が亡くなったということだろう。現実の世界に存在する、かをりのオリジナル「カヲリ・ハートフィールド」なる女性がNLにより子供を失っているのかもしれない。

 しかし、NLの最初の症例が認められたのは二〇〇〇年であり「ノーザン・ライト」というネーミングも当時私たちがつけたものだ。一九九三年のかをりが過去にそんな体験をしているというのは、どう考えても辻褄つじつまが合わない。


 最後に、かをりを苦しめる悪夢とおぼしき事象。

 それは、想像していた以上にむごいものだった。

 単なる無表情ではなかった。人としての感情が完全に消え失せていた。

 具体的な内容は、以前横浜でかをりから聞いた言葉から推測できる。無表情の裏には、目を背けたくなるような、痛ましい体験が存在する。

 第三者である私は一時的に目を背ければ済むのかもしれない。しかし、かをりはそうはいかない。

 かをりは、そんな凄惨な目に遭っているのは「自分ではない自分」だと位置づけ、事象を客観視しようとした。ただ、そんな心理操作を完璧にやってのけるのは至難の業であり、結果として、忌まわしい記憶がかをりの防壁を突破して襲い掛かった。

 無意識のうちに自らを死に追いやろうとする衝動はいつ発現してもおかしくない。早急に何らかの対策を講じる必要がある。


 今後の治療の進め方は、十文字先生が検査結果を分析したうえで判断することとなるが、かをり自身に病気と闘う姿勢が見られるのは何よりだ。私も積極的に協力していきたい。


 ただ、かをりの口からNLという言葉が発せられたことについて、私自身戸惑いを隠せないでいる。私の中では、NLとの戦いは終わったようで終わっていない。常に漠然とした不安を抱いている。

 私がSJWへやってきたのは、まさにそんな不安を払拭するため――NLが存在しない世界を欲したため。

 にもかかわらず、奴らは存在した。まるで私を追いかけてきたかのように。


★★


 時刻が十一時二十五分を回った頃、治療室から十文字先生とかをりが姿を現す。

 私と目が合ったかをりは前髪を下ろして顔を隠すような仕草をする。


「おはよう。深見くん」


「かをり、お疲れ様。十文字先生、どうもありがとうございました」


 私はかをりにねぎらいの言葉を掛け、十文字先生に深々と頭を下げた。


「あたし、検査のとき、おかしなことを言ったみたい……でも、忘れて。意外と気にするタイプだから。十文字先生も『それがいい』っておっしゃってくれてるし」


 かをりは視線を逸らして恥ずかしそうな顔をする。


「深見くん、そんなわけですから、SJ検査の内容は『ここだけの話』ということにしておいてください。他言は無用です。もちろん岡安さんに対してもです」


 十文字先生がにこやかな表情でかをりのフォローをする。


「ところで、深見くん……お腹空いた! かをりさん、すごくがんばったよね? だから、美味しいものを食べに連れていって!」


 予想どおりのリアクションに私は思わず噴き出した。

 そんな私を見て「ふくれっ面」をするかをりだったが、ランチの候補を提示すると「えびす顔」が取って代わる。

 十文字先生は私たちのやりとりを見ながら笑顔でうんうんと頷く。


「若い人は見ていて気持ちが良いですね。僕みたいな年寄ロートルにはない、豊かな発想や創造力があります。今僕が手掛けている研究も僕の発想だけでは限界があります。しかし、これから優秀な若い人に上手くバトンタッチできれば、実を結ぶと信じています。

 将来僕の研究を継いでパラダイム転換につながるようなすごいことをやってのける人がきっと現れる。いつもそんな気持ちで臨んでいるからこそ、僕は研究を続けられるのです」


 十文字先生の話を聞いて「ある男」の顔が浮かんだ。「彼は先生の期待に応えてすごいことをやってのけました」。そんな一言が伝えられないのがとてももどかしかった。


「では、本日の検査結果を踏まえて、岡安さんの症例を分析したいと思います。その状況によって、改めて治療方法を相談させてもらいます。

 来週二十四日の金曜日にもう一度来てください。SJ検査も上手くいったことですから、最優先事項として進めさせてもらいます」


★★★


 私とかをりが立ち去ろうとしたとき、十文字先生は「玄関まで送ります」と言って、いっしょにエレベーターに乗り込んだ。

 エレベーターが一階に到着すると、目の前に「救命救急センター入口」と書かれた表示が現れる。十五年前のあの夜のことが頭に浮かんだ。今思えば、ここが私の医者としてのスタート地点だと言ってもいい。


 突然、救命救急センターの扉が開く。救急車が到着したようだ。

 私たちは、患者の搬送の邪魔にならないよう、条件反射のように壁際に飛び退いた。


 ストレッチャ-には一歳ぐらいの男の子が乗せられ、真っ赤な顔をして泣き叫んでいる。呼吸をするのも苦しそうだ。

 連れて、男の子の母親と思しき女性が息急いきせき切って飛び込んできた。パニック状態に陥ったように、看護師に対して大声で何かを訴えている。


「子供が、元気だった子供が……熱が三十九度まで上がって、背中に……なんて言うか……赤とか青とか色のついた線が出てきて、身体が冷たくなったんです!」


 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。全身の毛穴が開いて身体中に汗がにじんだ。心臓が早鐘を打つように鳴り響いている。


『間違いない。あれはNLやつだ。なぜNLやつがこの時代にいる……? あり得ない。絶対にあり得ない』


 視線をストレッチャーに向けながら心の中で何度も同じ言葉を繰り返した。

 脳内の引出しが片っ端から開き、十五年間の「記憶」と「記録」が引き出される。

 新しいものから古いものへとさかのぼるにつれ、NLの犠牲になった、たくさんの子供たちとその横で泣き崩れる親の情景が蘇る。


『あの子供はSJシステムが作り出したNPCに過ぎない。助ける必要などない』


 私は自分を必死に説得しながら、忌まわしい記憶の情景と目の前の光景とを必死に振り払おうとした。

 なぜNLがいるのかはわからない。ただ、SJWが現実世界を忠実に再現しているとしたら、NLを倒す方法はわかっている。

 しかし、この世界におけるNLは「未知なるウイルス」。そんなウイルスを、私が持つノウハウを使って倒すことがどういう結果を招くのか。あくまで可能性の問題だがリスクが大き過ぎる。


 子供を乗せたストレッチャ-は、医者、看護婦、母親とともに治療室に吸い込まれていく。

 解熱剤が使われるのは時間の問題だ。そうなれば、あの子供は――百パーセント死ぬ。

 それでいいのか? NPCなら何百人でも何千人でも死んだって構わないのか? 本当にそれでいいのか?


「どうしたの? 深見くん。顔が真っ青だよ」


 かをりが心配そうに私の顔を覗き込む。私は荒い呼吸をしながらかをりの顔をじっと見つめた。

 私はかをりのそばから一生離れないと約束した。そして、かをりを一生守ると心に誓った。だからと言って、見て見ぬ振りをしてもいいのか? 医者が患者を見殺しにしてもいいのか? 今あの子を救えるのは私しかいない。


 脳裏に、眠るように冷たくなっていった子供たちの情景が浮かぶ。それは二度と見たくないものだった。


『ここで逃げたら……私は一生自分を許せない』


 不安そうな顔をするかをりに、私は努めて笑顔を見せた。


「かをり、すぐ戻る。待っていてくれ」


 私は、男の子が搬送された治療室に向かって一目散に駆け出した。



 つづく

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