第19話 ピンチの後のランチ
★
翌日の火曜日は大学の授業もないことから、ゆっくり寝ている予定だった――が、九時を回った頃、階下から私を呼ぶ、母の声が聞えた。
「真! 電話よ! 早く! 待たせるのは失礼よ!」
ベッドから飛び起きた私は、慌てて階段を降りる。
すると、そこには、電話の子機を手で押さえながら神妙な顔つきをする母の姿があった。
「トワイライトの岡安さんって方からだけど……ねぇ、トワイライトって、雑誌のトワイライト? 母さんが読んでる、あのトワイライトなの?」
「そうだよ。あのトワイライトだよ」
私の一言に母の目の色が変わる。
「すごいじゃない! トワイライトの編集者さんと知り合いだなんて! どういう関係なの? どうやって知り合ったの? いつ? どこで? 電話の声からすると、若くて美人でやり手のキャリアウーマンって感じがするけど。あんたも隅に置けないわね。誰に似たのか知らないけど」
二十年来のトワイライト愛読者で、無類のドラマ好きの母の話は終わりそうにない。このまま黙って聞いていたら話があらぬ方向へ発展しそうだ。
「そんなんじゃないから。おかしな妄想しないでよ。それより、相手を待たせるのは失礼なんだろ?」
電話の子機を渡すよう私は右手を差し出した。母はブツブツ言いながら両手で子機を渡す。
そのとき、私は「あること」に気づいた。母が押さえているのは「送話口」ではなく「受話口」だった。
母から子機を奪い取ると、私は和室に向かって駆け出した。まるでバトンを受け取った、リレー走者のように。
「お、お待たせしました。深見です」
和室に飛びこむや否や、声を潜めて緊張気味に話した。電話の向こうで笑いを
「おっはよう! 若くて美人でやり手のキャリアウーマン岡安かをりさんだよ。改めまして、日頃から月刊トワイライトをご愛読いただきまことにありがとうございます。今後とも変わらぬご愛顧を賜りたくよろしくお願い申し上げます。それはさておき……明るくて楽しいお母様ね。ぜひ、ゆっくりお話したいわ」
予想どおり、母と私の会話はボーイッシュに筒抜けだった。母の天然は私のイメージどおりで、SJWにもしっかりと反映されている。
「昨日は、お電話いただいたのにお話できなくてごめんなさい。どうしても手が離せなくて。でも、深見さんが言いたかったこと、ちゃんと理解してるよ。小説の原稿のことだよね?」
「そ、そうです! 原稿のことです!」
思わず大きな声が出た。私が焦っているのがわかったのか、ボーイッシュは「くすっ」と小さく笑う。
「ビンゴね。じゃあ、深見さんにはいろいろとご迷惑をお掛けしたから、今日のお昼ごはん、ごいっしょしない? もちろんかをりさんの
待ち合わせ場所は、この前の「衝突地点」。時間は十一時四十五分でどう? 預かっている原稿七枚はお昼ごはんの後で返すから。それと、かをりさんから一つお願いがあるの」
相変わらずボーイッシュのペースで話が進んでいる。しかし、今の私の最優先事項は、命の次に大切な原稿を取り戻すこと。ここで彼女にヘソを曲げられるのは得策ではない。特に予定もないことから、ボーイッシュの話に乗ることにした。
「残りの原稿を持って来てくれたら、すごくうれしいんだけどなぁ……ダメ?」
「わかりました。持って行きます」
予想だにしない展開だったが、私は二つ返事でOKした。
「ありがとう。じゃあ、お腹空かして来てね。See you」
ひょんなことから私たちはいっしょに昼食をとることになった。
何はともあれ、午後には原稿が戻ってくることになった。私は安堵の胸を撫で下ろした。
★★
午前十一時三十分、私はボーイッシュが待ち合わせ場所に指定した「衝突地点」に到着した。
しかし、正面玄関を入ってすぐのところであり、時間が経つにつれ人通りが激しくなる。
四十分を過ぎた頃、明らかに自分が邪魔になっていることがわかり、私は少し離れた壁際で待つことにした。
ランチに出掛けるビジネスマンが上層階のオフィスから降りてくる時間帯であり、四台のエレベーターは、さながら通勤ラッシュの満員電車のようだった。
私は目を皿のようにして、食い入るように見つめていた。なぜなら彼女の容姿がうろ覚えだったから。
ショートヘア、モノトーンの服装、さばさばした態度から「ボーイッシュ」というネーミングで呼んではいたが、細かいところを思い出そうとするとなかなか出てこなかった。顔は誰に似ていたとか、身長はどれくらいだったとか、そのあたりがピンと来なかった。
半袖のワークシャツとくたびれたチノパンというラフな格好の男が、エレベーターから降りてくる一人一人を品定めするように熱い視線を送っている。
客観的に見れば、不審者以外の何者でもない。
前を通り過ぎる人が私の方をチラ見する。壁際で待ち合わせをするOLが、私に視線を向けながらひそひそ話をしている。
はっきり言って、かなり居心地が悪い。一秒でも早くこの場から離れたい。
時刻は十一時四十六分。約束の時間はとうに過ぎている。
「ボーイッシュの奴、人を呼び出しておいて何やってるんだよ! 編集者は時間に厳しいんじゃないのかよ!」
自分が置かれている状況への
「見つけたよ。キミが深見さんだね」
間髪を容れず、背後から聞き覚えのある声がした。心臓が止まるかと思った。
振り返ると、ショートカットの髪を黒いカチューシャで留めて、前髪をアップにした彼女がいた。
「ごめんなさい。怒らないで」
ボーイッシュは首を少し
「待ち合わせ場所にはそれらしい人がいなくて、『この人かな?』なんて思いながらなかなか声を掛けられなかったの。この前はバタバタしていて深見さんの顔をじっくり見たわけじゃなかったから。事前に服装を教えてもらうとか目印になるようなものを持ってきてもらえばよかったなぁなんて後になって思ったの。
でもね、深見さんのイマジネーションのおかげで、こうして運命の再会を果たすことができたってわけ。かをりさん、よく言われるんだ。『ボーイッシュ』って。二十五歳の女の色気をみんな感じないのかしらね」
襟の大きな白いシャツと黒いタイトスカート。モノトーンの服装に身を包んだボーイッシュは、まつ毛の長い大きな目で私を見つめながら、口角を上げて笑った。相変わらず彼女のペースで話が進んでいる。
時刻はそろそろ正午。ロビーに到着するエレベーターからは次から次へとたくさんの人が吐き出される。
ボーイッシュが言葉を発する様は、どこかそのエレベーターに似ている。
「岡安さん、失礼なこと言ってごめん。悪気があったわけじゃないんだ。でも、エレベーターから出てくる人をずっと見ていたが、キミの姿は見当たらなかった」
「深見さん、Don’t worryだよ。でもね、好んで満員電車に乗る人はいないよ。そんなの朝夕だけで十分。かをりさんはこの二本の足を使って階段からはせ参じました。毎日のジョギングでバッチリ鍛えているの」
ボーイッシュは両手の人差し指で、スラリと伸びた、カモシカのような足を指し示す。
「そんなことより、お腹空かない? かをりさんはペコペコ。せっかく築地まで来たんだから新鮮なマグロでもどう? 安くて美味しいお店があるの」
「マグロか。いいね。最近マグロらしいマグロとは無縁なんだ。昔は結構食べたんだが。是非お願いするよ」
「深見さんって……やけに落ち着いた話し方するのね。なんだかおじさんと話してるみたい。それに、マグロと無縁ってどこに住んでるの? マグロがないところ? 昔は食べられたってどういうこと?」
ボーイッシュが不審そうな目で私を見る。
「あ、あはははは! 女性にほとんど面識がないから緊張しててね」
私は目を逸らして声を上げて笑った。自分でもわざとらしい気がした。
「友達からもよく言われる。『すごく落ち着いていて四十代半ばに見える』って。まだ二十三歳なのにまいったよ。
マグロは……妹が苦手でね。見ただけでダメだから、わが家の食卓には並ばないんだ。妹が生まれる前はよく食べたってことだよ。うれしいね。久しぶりのマグロは」
我ながら情けない言い訳だった。「SJシステムの矛盾修正が働くのでは?」。そんな不安が脳裏をよぎったが、取り越し苦労に終わった。
つづく
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