第21話 岡安かをりという女


 オレンジ・ジェラートを食べながら、私たちは昼下がりの東京の街を歩いた。


 しばらく行くと、緑に囲まれた空間が現れる。人工の小川が流れ、両岸には背の高い樹木が植えられている。

 木陰に置かれたベンチでは、ランチを摂るOLや仮眠をとるビジネスマンの姿が見られ、それぞれが憩いのひと時を楽しんでいる。


「深見く~ん、こっちこっち! ここいてるよ! きっと神様が用意してくれたんだよ! かをりさんの日頃の行いの賜物たまものだね!」


 突然走り出したボーイッシュは、空いているベンチの真ん中に腰を下ろすと、大声で私の名前を呼んだ。

 周りの視線が集まる中、罰が悪そうに隣に座る私に、封筒から取り出した原稿用紙を手渡す。


「はい、プレゼント。深見くんの大作の一部なんでしょ? 悪いけど読ませてもらったよ。お医者様を目指しているのに執筆もするなんてすごいね。書くことが好きなの?」


「ありがとう。一時はどうなることかと思ったよ。こんな文章でも、私にとっては大切な宝物だからね」


 それが「715」の原稿であることを確認した私は、安堵あんどの胸を撫で下ろした。


「情けない話だが、私は自分の意思で医者になろうと思ったわけじゃないんだ。小さい頃から作家になるのが夢で、今でも諦め切れずにいる。

 最初は小説を読むのが好きだった。そして、いつからか書くようになった。なかなか自由になる時間がなかったが、何とか時間を見つけて書いた。睡眠時間を減らしても全く苦にならなかった。

 医師の世界も充実感はある。でも、私は『書くこと』で誰かに夢を与えたり誰かの役に立ちたい。文章には想像もつかないような大きなパワーがある。落ち込んでいる人を勇気づけたり、泣いている人を笑顔にしたり、怒っている人に冷静さを取り戻させたりすることができる。そして、幸せな人をより幸せにすることができる。そんなパワーをもった文章が書けるようになりたい。

 果てない夢かもしれない。結果として、失望や絶望を感じるかもしれない。諦めた方が楽なのかもしれない。そんな風に考えたこともある。でも、諦めきれなかった。可能性が一パーセントでもある限り、私は夢を追い続けたい――」


 はっと我に返った。自分が青臭い夢物語を力説しているのに気付いた。はっきり言ってドン引きするような内容だ。

 しかも、目の前にいるのはプロの編集者。夢とか気合で文章が執筆できるなんてお笑い草だろう。鼻で笑われてもおかしくはない。恥ずかしさに耐えられなくなり、視線が足元に向いた。


 ボーイッシュは何もしゃべらない。私の戯れ言に嫌気が差したのかもしれない。行き交う車のエンジンの音とセミの鳴き声がはっきりと聞える。


「……もう終わりなの? もっと聞かせて欲しいな。深見くんの思い」


 沈黙を破ったのはボーイッシュの一言だった。

 ゆっくり顔を上げると、彼女は首を傾けて優しい笑みを浮かべている。


「文章のこと、そんな風に語ってくれた人、今までいなかった。難しい言い回しや偉そうなフレーズで飾った演説を長々としたって、が籠っていなければ人の心は動かない。それと同じで、気持ちが入っていない文章は単なる文字の羅列。

 深見くんの言葉には難しい言い回しや偉そうなフレーズは入っていなかった。でも、短い言葉の中に熱い思いがギュっと詰まっていた。それがあたしの中に入ってきて、身体の隅々にまで行き渡った感じがした。だから、しばらく余韻に浸っていたの。『深見くんがわたしの中に入ってきた』って感じかな……あっ、へんな意味じゃないからね」


 私の視線はボーイッシュに釘付けになっていた。予想だにしない言葉が返ってきたこともあるが、そのときの彼女の表情がとても印象的だったから。


 普段はおしゃべりな彼女が、穏やかで優しい表情を浮かべて、私の話をじっと聞いてくれた。青臭い夢物語を否定することなく、私が投げたボールをしっかり受け止め投げ返してくれた。しかも、返ってきたボールには熱い何かが詰まっていた。


★★


「深見くん、残りの原稿も見せてもらえませんか? 今ここで読みたいの」


 私は原稿の入った封筒をボーイッシュに手渡した。


「ありがとう。原稿用紙百枚ぐらいだから……四十分ください」


 その瞬間、ボーイッシュの表情が変わった。大きな目がさらに大きくなり、瞳の奥に眼光が宿る。まさにプロの編集者のだった。

 原稿に目を走らせながら、時折笑みを浮かべたり小さくうなずいたりと様々な表情を浮かべる。私と彼女との間で言葉は交わしていないが、気まずさは全く感じられない。

 彼女の表情と原稿に、交互に目をやることで、どのシーンをどんな風に読んでいるのかが想像できた。小説にこんな楽しみ方があるなんて思いもしなかった。


 四十分が経った頃、ボーイッシュは原稿の束を膝の上に置いてフーッと息を吐いた。

 夢にまで見た、プロの編集者による論評が聞ける瞬間が訪れようとしていた。


「……文章が粗い。誤字・脱字だらけ。言葉の遣い方がバラバラ。ストーリー展開が分かりづらい。読んだ感想はそんなところかな」


 予想通りの結果だった。ショックがないと言えば嘘になる。ただ、あの月刊トワイライトの編集者が目を通した結果なのだから、真摯しんしに受け止める必要がある。

 これで私の夢が終わったわけではない。指摘を踏まえてもう一度やり直せばいい。夢に向かってスタートが切れたことを喜ぶべきだ――私は自分に言い聞かせた。


「岡安さん、ありがとう。キミの指摘を踏まえて一から出直す。そして、どんなに時間がかかっても岡安さんに認めてもらえるような作品が書けるようがんばる。だから、これからも私の作品を見て欲しい。そして、率直な意見を聞かせて欲しい。よろしくお願いします」


 私は深々と頭を下げると、ボーイッシュの瞳を真っ直ぐに見つめた。

 すると、彼女はフッと笑みを浮かべた。


「深見くん、あたしね嘘がキライなんだ。人につくのはもちろん自分自身につくのもイヤ。一度嘘をつくと、辻褄つじつまを合わせるためにまた嘘をつかなければならなくなる。結果として、一生偽り続けることになる。

 嘘をつけば、そのときは上手くいったような気になるけれど、後で絶対にひずみが生じる。たくさんの人を傷つけることになる……だから、これまで嘘をついたことはない。深見くんにもホントのことを言ったの」


 ボーイッシュは川で水遊びをしている子供に笑顔で手を振る。手を振ってきた子供に応えたようだ。


「でもね、深見くん。学校で習わなかった? 『人の話は最後まで聞きましょう』って」


 ボーイッシュの言葉の意味がわからない私は、眉間に皺を寄せた。


「さっき言ったのは、あくまで読んだ感想。四十分もらえたらだって読める。

 じゃあ、読んだ感想の方ね。

 夕日出版が発行する小説専門誌『イージー・ゴーイング』の編集長。SF作家崩れで感性は折り紙つきの人。彼に話をする。見る人が見れば、深見くんの才能と情熱は伝わると思うから。

 もしNGだったら……別の雑誌に声をかける。それでもNGだったら、また別の雑誌に声をかける。キミの才能がわかる人に出会うまで声をかけ続けるよ」


 開いた口がふさがらなかった。信じられないことというのはいつも突然起きるものだ。私はどんな顔をしていいかわからなかった。


「お、岡安さん……ありがとう……! どうかよろしくお願いします!」


「はい。お願いされました。それと、深見くん、一ついい?」


 ボーイッシュは私の顔を覗き込む。顔がアップになったことで大きな目がさらに大きく見える。


「あたし、『岡安』って呼ばれてもピンと来ないんだ。名字を呼ばれることなんてまずないから。『かをり』って呼んで。『か・を・り』ね。『お』じゃなくて『を』だから発音は間違えないように。じゃあ、言ってみよう! 深見くん」


 ベンチから立ちあがったボーイッシュは、自分のことを名前で呼ぶように言った。「NO」とは言えない雰囲気がひしひしと伝わってくる。

 宿題を忘れた小学生のように、彼女の前に立たされた私は躊躇ためらいがちに言葉を発した。


「よろしく……かをり……さん」


「ダメ、ダメ! 誰が『さん』なんかつけろって言ったの!?」


「だって、自分でも『かをり』って言ってるから――」


「一人称と二人称じゃ全く違うでしょ? それはそれ。これはこれよ。それに声が小さい! やりなおし!」


 小さい頃、土曜日の夜八時に放送していたコント番組のオープニングを見ているようだった。


 昼休みが終わったせいか、都会のオアシスは人がまばらになっている。

 この試練をクリアしない限り、解放してもらえないのは間違いない。私は腹を括って大きく深呼吸をした。


「よろしく! かをり」


「こちらこそ、よろしくね。深見くん」


 かをりは両手で私の右手をとって胸の前で強く握った。顔が近いせいか、サラサラの髪の良い香りが鼻をくすぐる。

 夏の太陽が照りつける中、手の温もりが心地良く感じられる昼下がりだった。



 つづく

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