第22話 真夜中は別の顔


 「ボーイッシュ」が「かをり」に変わって一ヶ月が経った。


 かをりとは電話で何度か話をした。私の小説のことはもちろん、雑誌編集の仕事のことや好きな作家や小説のことなど、いろいろな話をした。

 かをりのペースで話が進むのは相変わらずだったが、彼女の話は私の興味をそそるものが多く、楽しい時間を過ごすことができた。


 切れ者の編集者でクールなかをり。明るい雰囲気の能天気なかをり。物静かで寂しそうなかをり。穏やかで優しい笑みを浮かべるかをり――短い間にたくさんの彼女に出会った。

 そのときの感情や置かれている環境によって、受ける印象が異なるのはよくあることだが、新しい彼女に出会うたび、私は別人と会っているような感覚を覚えた。


 SJWは現実世界を模して作られてはいるが、矛盾を生じさせないよう都合良くできている部分もある。

 言い換えれば、「何でもあり」の世界であって、現実世界の基準で物事が説明できないこともある。上手くやっていくには、細かいことをいちいち気にすることなく、気楽に行くのがいいのだろう。


 小説「715」の件について、先週かをりから連絡があった。

 イージーゴーイングの編集長が私に興味を持ってくれたようで「もう一編オリジナル小説を書いて欲しい」とのことだった。

 話は良い方向に進んでいるが、それは私の実力ではなく、かをりの口添えに負うところが大きい。


 かをりは「トワイライト・アベニュー」という後書きのコーナーを担当している。後書きとは言いながら、同誌に掲載された、特定の記事にスポットを当てたエッセイ形式のもので、創刊当初から続く、トワイライトの看板記事。

 当時はプロの作家に執筆を依頼していたが、いつからか若手の編集者が執筆を行うようになった。将来を嘱望される編集者の登竜門のようなものだ。

 

 固い内容の記事を砕けたエッセイに置き換え、読者の理解を深め、幅広い層に親しみを持ってもらうのがコンセプトで、内容や構成は執筆者に任されている。

 しかし、クオリティの高いエッセイを書き続けるのは想像以上に難しいようで、これまで半年足らずで執筆者が変わっていた。

 そんな中、かをりはこのコーナーを二年以上続けている。


 かをりの書く文章は、記事の内容をわかりやすく解説しているだけでなく、ちまたの流行や自分の体験を上手く取り入れ、お洒落な雰囲気の中に親しみやすさをかもし出している。おごりや嫌味もなく、良い意味で女性らしさが感じられる。

 男性読者はもちろん女性読者からも感想が多数寄せられ、中にはプレゼントやファンレターを送ってくる者もいる。熱烈なファンやリピーターをいかに獲得するかが雑誌の重要な課題の一つではあるが、そんな課題に対してかをりは大きく貢献している。

 他にもいくつか記事を担当し女性目線で斬新な企画を提案する彼女は、トワイライトになくてはならない存在だ。


 私はと言えば、大学院の入学試験を九月下旬に控えており八月末までに願書を提出しなければならない。

 ただ、結果については全く心配していない。今の私なら、太陽が西から昇らない限り、東都大学の大学院へ合格することができる。

 とは言いながら、試験当日に不測の事態が生じないとも限らない。

 SJWにおいて盲腸・骨折といった、突発的な疾病が発症するかどうかは定かでないが、現に病院があって病気が存在することを考えれば、無いとも言い切れない。

 滑り止めとして「横浜医科大学大学院」にも願書を出しておくことにした。


★★


 八月十六日、午後十時を過ぎた頃、かをりから電話がかかってきた。

 前日が八月号の発行日だったが、記事の内容にクレームをつけてきた政治家がいるそうで、その対策を検討しているらしい。

 幹部による会議が続いているため、かをりはデスクで待機中。早い話が暇つぶしの電話だ。


「そう言えば、大学院の願書の締め切り、そろそろじゃない? 深見くんは東都大学一本なの?」


「試験を受ければ十中八九受かる。ただ、当日病気で受験できないこともあるから、とりあえず横浜医科大学にも願書は出しておく。願書の締め切りは東都大と同じ来週二十七日だ」


「横浜医大って言ったら、キャンパスは山手町だよね? 横浜港を見下ろすシチュエーションに異人館っぽいお洒落な校舎……ステキ! それに、かをりさんが仕事で横浜に行ったときなんか、いっしょにご飯食べたりできるじゃない! 中華街の飲茶やむちゃも捨てがたいけれど、馬車道あたりにある、昔ながらの洋食屋さんとか元町のお洒落なイタリアンもイイなぁ。

 今はたまにしか行かないけれど、深見くんがいるなら口実つけてバンバン出張しちゃう。『かをりの横浜食べ歩記』なんて企画立てちゃおうかな? かをりさんがスポンサーになってあげるから、深見くんはお店の開拓係ね」


 相変わらず、かをりのペースで話が進んでいる。しかも、彼女の頭の中では、私が横浜医科大へ通うことになっている。


「横浜医科大は、東都大の受験ができなかったときの保険みたいなものだ。九十九.九パーセント行かないよ」


「ぶぅ~! そんなことわかってるよ。せっかくの楽しい妄想が台無しだよ」


 電話の向こうでふくれっ面をする、かをりの姿が目に浮かんだ。


「でも、入学するかどうかは別にして下見は必要だよね? 願書は大学の窓口に直接提出してもイイんでしょ? 今週の金曜日、行ってみようよ。かをりさん、その日はお休みなんだ。部屋の掃除をする予定だけれど、昼過ぎには終わるから関内駅に十五時には行けるよ。ついでに、美味しいお店の下見やウインドウショッピングなんかもできるしイイと思わない?」


「願書は郵送でも受付けられる。それに、大学の場所もわかってる。わざわざ下見する必要なんかないよ」


「深見くんの意地悪! わかったよ。百歩譲って願書は郵送でいい。でも、お店の下見とウインドウショッピングは絶対に行くからね! 八月二十日はJR関内駅の改札を出たところに十五時集合……! あっ、編集長が戻ってきた。じゃあ、そういうことでよろしくね。Good Night」


 願書は郵送することになったが、二人で横浜へ行くことになった。またしても、かをりのペースで話が進んでしまった。

 とは言いながら、私も新しい小説のプロットを一度かをりに見てもらいたいと思っていた。それに、横浜へ出掛けたのは、私が大学へ入学したとき家族で食事に行ったのが最後。久しぶりに行ってみたいと思った。


★★★


 八月十九日の夜、次の日かをりに見てもらう、小説のプロットをチェックしていた。前回のような「愛のムチ」をもらわないよう、ギリギリまで推敲すいこうを重ねていた。

 時刻は午後十一時。そろそろ寝ようかと思ったとき、電話が鳴る。足早に階段を下りて電話の子機をとった。


「もしもし、深見ですが……。もしもし……?」


 話し掛けて見たが、返事がない。


「もしもし?」


「……深見くん?」


 少し間が空いて声が聞えた。予想どおり、かをりからだった。電話の向こうから静かな音楽が聞える。


「声が聞こえにくい。どこから?」


「ちょっと飲みに来てるの」


「そうか。でも、ほどほどにしておいた方がいい。あまり飲みすぎて二日酔いにでもなったら、美味しいものが食べれなくなる」


「そうだね」


 心なしか声に元気がない気がした。大きな声で話せない場所にいて、意図的に声を潜めているのかもしれない。


「明日は夕方からまとまった雨が降るらしい。傘を持っていたほうがいい。できれば、テルテル坊主も作った方がいい」


「今からじゃ間に合わないよ」


「じゃあ、心掛け次第かな。いっしょに祈ろう。『明日は雨が降りませんように』って。もし降ったら……キミの心掛けが悪かったってことだ」


「ひどい」


「冗談だよ。そのときは私のせいだ。私は昔から雨男だったから……。ごめん。余計な話をして。それで、何か用?」


 私の一言に沈黙が訪れる。静かな音楽に交じって微かに人の話し声が聞える。


「……お願いがあるの」


「お願い?」


「うん。『かをり、がんばれ』って言って」


「がんばる? 何をがんばるの? 意味がわからないよ」


「いいから言って」


 声のトーンは落ちついているが、どこか逼迫ひっぱくした様子が感じられる。


「わかった……かをり、がんばれ」


「ありがとう。助かりました。じゃあ、また明日。おやすみなさい」


「うん。おやすみ」


 電話を切ってすぐにベッドに入った。

 正直なところ、意味がわからない電話だった。

 こんな時間に何をがんばるというのか? 会社へ戻って仕事でもするのだろうか? 

 そんなことを考えていたら、いつの間にか眠りについていた。


★★★★


 朝起きると小雨がぱらついていた。

 空は灰色の雲に覆われ切れ間が見えない。天気の回復は期待できそうにない。「深見くんの心掛けが悪いせいだよ」。そんなかをりの声が聞えてきそうだった。

 天気予報によれば、横浜も一日中降ったり止んだりで夕方には雷雨もあるらしい。出掛ける日としては最悪だと言ってもいい。いきなり電話のベルが鳴って「今日は天気が悪いから中止ね」などと言われてもおかしくない。


 午後になっても天気が回復する兆しは見られなかった。

 出掛けるのが億劫ではあったが、昨晩のかをりの様子が気になったこともあって、早めに家を出ることにした。

 JR関内駅に着いたのが午後二時三十五分。さすがに早く着き過ぎたと思いながら、とりあえず改札を出た。


 次の瞬間、私は目を疑った。

 かをりがいたから――いつものかをりではないかをりがいたから。

 ウエストにリボンがついた、ワインレッドのワンピース。服に合わせたような赤色のパンプスと真っ赤な口紅。アイシャドウが濃いせいか大きな目がさらに大きく見える。

 ファッション雑誌の中から抜け出てきたような容姿に、通行人が振り返って眺めている。「昨日の夜、何かあったに違いない」。心の中でそうつぶやきながら、私は足早に彼女に近づいていった。



 つづく

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