第20話 マグロとジェラートの午後


 月刊トワイライトの編集部があるのは、東京都中央区築地。

 銀座に隣接する立地条件の良さに加え、世界最大規模の卸売市場「築地市場」があることから、平日・休日にかかわらず、ビジネスマンや観光客でにぎわっている。


 築地市場は、世界中から新鮮な海産物が集まることで「東京都の台所」と呼ばれ、場内・場外二つのエリアに千店以上の専門店が軒を連ねる。

 ちなみに、場内は海産物などを競りにかける卸売りの店が集まり、客のほとんどはプロの仲買人。それに対し、場外は一般客を相手にした小売店がほとんどで、外国人の姿も数多く見られる。


 夕日新聞本社ビルを出発した、私たちは雑踏を避けるように裏通りへと入った。


「これから行くお店は築地市場の場内にあるの。深見さんは場内って行ったことある?」


「場外には何度か行ったことはあるが、場内はない。一般のお客さんは入れないんじゃない?」


 私の一言に、ボーイッシュはしたり顔で、右手の人差し指を立てて左右に小さく振る。


「一般ピープルも入場可能だよ。でもね、深見さんみたいにNGだと思っている人が多いおかげで場内は狙い目なの。朝の四時ぐらいから開いているお店ばかりだからお昼過ぎには閉まっちゃうけれど、安くて美味しいものを食べたいなら断然場内だよ」


「わかった。大いに期待するよ」


 細い路地に入ると、観光客の姿はほとんど消え、いかにも商売人といった風貌の男たちがそれに取って代わる。

 道を一本入っただけで雰囲気が一変した。


「ここだよ。もし満員だったら、餓死しない程度に待っててもらうから覚悟してね」


 ボーイッシュは「マグロ料理専門」と書かれた、年代物の看板がかかる、小さな店の前で足を止めて、小さくウインクをする。そして、ガラガラと格子戸を引いて店の中を覗きこんだ 。


「ラッキー! カウンターの席が二つ空いてるって」


 うれしそうな声とともにボーイッシュが手招きをする。

 ちょうど、ビジネスマンとおぼしき七、八人の集団が私たちの後に並んだことを考えれば、彼女の言うとおり、私たちはとてもラッキーだった。


「ここはハズレがないの。何でも美味しいんだ。かをりさんの一押しは、いろんなマグロが食べられる特別定食とくてい。深見さんもそれでいい?」


「お任せするよ。郷に入れば郷に従えだから」


「また年寄りみたいな言い方して。おじさ~ん、特別定職とくてい二つ! ご飯大盛りでね!」


 私の右隣に座るボーイッシュは、冷たい麦茶の入ったグラスを両手で抱えて、板前がマグロを料理する様子をじっと見つめている。さっきまでの彼女とは雰囲気が明らかに違う。

 話しているときは、底抜けに明るい、能天気なイメージなのに黙っていると寂しい雰囲気が漂う。

 いずれにせよ、現実の世界では、私は彼女と面識がない。SJWで初めて出会った人だ。


 私の視線に気づいたのか、ボーイッシュは視線をグラスに落として氷をカラカラと鳴らす。


「何見てるの? かをりさんがあんまりカワイイから気になっちゃった? なぁんて、そんなわけないか。

 自己紹介がまだだったね。改めまして、月刊トワイライト編集担当の岡安かをりです。二十五歳独身。十月二十三日生まれ。天秤座のA型。天秤座最後の日だからなんて言われるの。念のために言っておくけれど、男を両天秤にかけたことはありません。

 趣味は、お休みの日にぼーっとすること。それと、美味しいものを食べに行くこと。特技は文章を書くこと。書かせることの方が得意かな? 

 身長百六十五センチ、体重はトップシークレット。スリーサイズは……機会があれば教えてあげるね。こんな感じでいいかな? じゃあ、次はキミの番だよ」


 ボーイッシュは何の前触れもなく自己紹介を始めると、いきなり私に振ってきた。

 言葉を発した瞬間、寂しい雰囲気の彼女が消えて私の知っている彼女が戻ってきた。

 

 大きな瞳で見つめる彼女には抗えない雰囲気が漂っている。相変わらず彼女のペースでことが進んでいる。


「……深見真。二十三歳。東都大学医学部六年。身長百七十五センチ。体重五十八キロ……あとは何を話せばいい?」


 ボーイッシュは「うんうん」と頷きながら私の話を聞いている。

 言葉は発していないが、大きな目が「それでおしまい?」と言っているような気がした。


特別定食とくてい二つお待たせ!」


 板前の威勢のいい声とともに、私たちの目の前に大きな盆が姿を現した。

 ボーイッシュの視線が盆の方へ向けられる。私は金縛りが解けたかのように身体の自由を取り戻した。どうやら特別定食に救われたようだ。


「マグロの種類や調理法によって味が全然違うんだよ。あっ、偉そうに薀蓄うんちく並べてる場合じゃないよね。早く食べよう」


 ボーイッシュは「いただきます」と手を合わせる。私もつられる様に彼女と同じ行動をとった。

 盆の上には、ごはん、味噌汁、漬物のほかに四種類のマグロ料理が並んでいる。

 私の脳裏に「ある疑問」が浮かぶ。「期待」と言った方が正しいかもしれない。

 一般の人にはあまり知られていない、築地の場内の店。そこで出された、種類や調理法が異なる、四種類のマグロ料理。その味の違いをSJシステムは再現することができるのだろうか? もしそれぞれの特徴がこと細かに再現されているとしたら、多額の資金を投じたことも納得できる。

 緊張した面持ちで、私は料理に箸を付けた。


★★


「美味しかったぁ。お腹いっぱい。久しぶりのマグロはどうだった? お口に合いました?」


 目の前の料理をペロリと平らげたボーイッシュは、二杯目の麦茶を飲みながら私の顔をジッと見つめる。

 美味しかった。いや、感動したと言っても過言ではない。マグロの刺身・焼き物・煮物・和え物。それぞれからそれぞれのうま味が感じられた。

 実際にこの店で食事をしたことがないため現実の味との比較はできないが、村上と行った日本料理店と比べても遜色そんしょくはない。


「最高だよ。こんな美味しいマグロが食べられるなんて思わなかった。岡安さん、本当にありがとう」


「ど、どういたしまして……」


 感動の気持ちをあらわにする私に、ボーイッシュは少し引いたような様子を見せる。


 店の外に出ると、夏の日差しが燦々さんさんと降り注ぎ、あたりにはセミの鳴き声が響きわたる。

 自動車会社の本社ビルの壁に埋め込まれた、巨大なスクリーンに新車のプロモーションビデオが映し出されている。日本人のレーサーが車を運転するシーンのBGMに、聞いたことのある曲が流れている。


「ちょっと待ってて」


 ボーイッシュは「イタリアン・ジェラート」と書かれた、オレンジ色のネオンサインのある店へ駆けていく。

 数分後、両手に大きなオレンジ色のシャーベットが乗ったコーンを持って戻ってきた。


「ここのオレンジ・ジェラート、すっごく美味しいんだよ。かをりさんのお気に入りなの。赤味がかっているのはイタリアから空輸したブラッド・オレンジを使っているから。赤いオレンジは、日本ではメジャーじゃないけれど、ヨーロッパではオレンジと言ったらこれね。はい! 『オレンジ・エアメール・スペシャル』」


 ボーイッシュは右手のジェラードを私に手渡して、左手のジェラードを美味しそうにぺろりと舐める。首を少し傾けてニッコリ微笑む姿は、企業のプロモーションビデオを見ているようだった。


 つられるように私もジェラートを食べてみた。確かに日本のみかんとは違うし、カリフォルニアのオレンジとも違う。SJシステムはこんな味の違いまで再現できるようだ。


「すごく美味しい。この『オレンジ・エアメール・スペシャル』」


「ホントに? 気に入ってもらえてよかった。じゃあ、かをりさんから一点注意点があります。お店でオーダーするときは『オレンジ・エアメール・スペシャルをください』と言ってはいけません」


「そうなの? でも、どうして?」


「だって、そのネーミング、かをりさんが勝手につけたんだもん。そう呼んだことがあるのは、深見くんとかをりさんだけだよ」


 相変わらずボーイッシュのペースで話が進んでいる。

 しかし、それも悪くないと思った。

 日本の夏を体験するのも久しぶりなら、女性といっしょにアイスクリームを食べながら東京の街を歩くのも初めての経験だった。

 そんなことを思いながら甘酸っぱいジェラートを頬張ると自然と笑みがこぼれた。


「なに笑ってるの?」


「わ、笑ってなんかいない。気のせいだ」


 視線を逸らして必死に否定する私の顔を覗き込むように、ボーイッシュは自分の顔を近づける。


「そんなことない。見間違えるわけないよ。だって、深見くん、すごくイイ顔してたもの。そんな風に笑えるなんてうらやましいな……あっ、すっかり忘れてた! 深見くんの原稿のこと」


 いつの間にか、私は「深見くん」になっていた。私は彼女のことを何と呼ぼうか。「ボーイッシュ」じゃダメだろうな。



 つづく

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