第40話 嘘つきの多いER


 慌てて顔を上げると、そこには、いつもの穏やかな笑みをたたえた十文字先生の姿があった。


「盗み聞きをするつもりはなかったのですが、白石先生の声があまりにも大きかったので、廊下を歩いていたら話が聞こえてしまいました」


 十文字先生は白石に向かって一礼をする。


 私は驚きを隠せなかった。

 今の私は、表向きは一介の医学生に過ぎない。医師の免許もなければ現場の実践経験もなく、白石の方が信頼できることは火を見るより明らかだ。

 「医師はどんなときも冷静であれ。そして、愛情を持って非情であれ」。十文字先生の言葉によれば、ここは患者を救うために非情に徹しなければいけない場面――にもかかわらず、先生は私に情を掛けている。


「白石先生、この件は僕が責任を持ちます。一筆が必要であれば書かせてもらいます。ですから、深見くんの提案する治療法を実践させてもらえないでしょうか? どうかよろしくお願いします」


 普段から腰が低い十文字先生がいつにも増してへりくだった態度をとる。

 そんな先生を後目に、白石は視線を天井に向けて何かを考える素振りを見せる。

 次の瞬間、白石の顔に人を馬鹿にしたような笑みが浮かんだ。


「脳科学の大家であられる十文字先生が、しがない内科医のわたしに何の用かと思えば、そんなことでしたか。こんな青二才になぜ肩入れをされるのか理解に苦しみますな。さて、どうしたものか」


 白石は明らかにこの状況を楽しんでいる。助けを必要としている患者が近くにいるにもかかわらずだ。

 十文字先生が視線を子供に向ける。先生も時間がないことはわかっている。


「事態は一刻を争います。すぐにご決断ください」


 十文字先生の顔から笑みが消え、鋭い視線が白石に突き刺さる。


「怖い。怖い。まるで罪人でも見るような目つきですな。わたしは何も悪いことなどしていないのに……困りましたな。わたしは本日の緊急担当医ですから、責任を放棄するわけにはいかないんですよ。いくら大先生に一筆書いてもらっても責任は私にかかってくるわけですからね。いやいや、困りましたなぁ。あははははは!」


 不快極まりない笑いが治療室に響き渡る。患者を蚊帳かやの外に置き、自分が優位な立場にいることを利用して十文字先生を小馬鹿にして楽しんでいる。

 どうしようもない奴だとは思っていたが、これほどとは思わなかった。性根が腐り切っている。


 世の中には、やって良いことと悪いことがある。人の命を軽んじ他人の尊厳をもてあそぶ非礼は決して許されるものではない。「この男はのうのうと生きていてはいけない」。私の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。

 ゆらりと立ち上がった私は、右手の拳を固く握り締め、白石の方へ足を踏み出した。

 十文字先生が私の前に右手をかざす。「待て」と言わんばかりに、首を小さく横に振った。


「白石先生がそうおっしゃると思って、『彼女』に来てもらいました――岡安さん!」


★★


 十文字先生の視線が入口の方を向く。

 間髪を容れず扉が開き、「待ってました」と言わんばかりにかをりが飛び込んできた。足早に白石の前に歩を進めた彼女は、飛び切りの営業スマイルを浮かべて名刺を差し出す。

 その瞬間、かをりの「ワン・ウーマン・ショー」の幕が切って落とされた。


「はじめまして。月刊トワイライトの岡安かをりと申します。社会経済を担当しており医療関係の記事もいくつか執筆しています。どうぞよろしくお願いいたします。ところで、白石先生? うちの雑誌はご覧になったことがありますか?」


 いきなりのかをりの登場に、白石は困惑の表情を浮かべて苦虫を噛み潰したような顔をする。


「あまり読まれたことがないようなご様子ですね。バラエティに富んだ、楽しい雑誌ですから、機会があればぜひご覧ください。

 本日は、深見さんが参加されている、新種ウイルスの共同研究についての特集を組みたいと思い取材に伺いました。内容を公表していないということで最初は断られたのですが、最後は、あたしの粘り腰と美貌で取材を取り付けました。美貌はあくまでですけれど」


 かをりは肩をすくめて「クスッ」と笑う。


「午前中の取材が終わったので、親しくさせていただいている十文字先生とお昼をごいっしょするところでした。そんな中、偶然この状況に遭遇しました。まさに『渡りに舟』とはこのことです。共同研究の成果を実践に移す現場を見られるなんて、ホントにラッキーです。あたしの普段の行いがいいってことです。ぜひ取材をさせてください。よろしくお願いします」


 かをりの明るい笑顔とは対照的に、白石はこれ見よがしに不快な表情をあらわにする。


「あんたね、いきなり取材なんて非常識にも程があるよ。然るべき者の許可が必要なのはわかるよね? それに、これは患者のプライバシーに関わる話なんだよ。マスコミなら何だって許されると思ったら大間違いだよ。近頃の若いものときたら――」


「そのことでしたら、心配ご無用です!」


 白石の言葉を、かをりのはきはきした、大きな声がさえぎる。


「本日の取材の件は院長にも許可をもらっています。それに、この子のお母さんにも説明して了承をいただいています。確認してもらっても構いません。でも、まずは患者が優先ですよね? 素人目に見ても一刻の猶予も許されないような状況ですから」


「そ、そうは言ってもだな、マスコミを治療室に入れるなんて前代未聞だ。気が散って医療ミスでも起きたらどう責任を取るつもりだ? 処罰を受けるのはわたしなんだぞ! いいから出て行け!」


 白石は、焦ったような様子で、喧嘩腰けんかごしに言い放った。脅し混じりの言葉で押し切ろうとする――が、相手が悪かった。かをりはそんな脅しに屈するような女ではない。


「白石先生、これまでいくつかの病院で手術や治療の現場に立ち会わせてもらいました。でも、すべて何事もなく終わっています。たくさんのスタッフが入るわけではなく撮影も行いません。あたし一人が、部屋の隅っこで、借りてきた猫みたいにちょこんと座っているだけです。医療ミスというのは、そんな些細なことが原因で起きるものですか? はっきり言って理解に苦しみます。

 もしかしたら、マスコミに見られて困ることでもあるのかしら? 病院として何か隠ぺいしているとか? 先生の回答次第では、今から院長のところへ行って、その件について取材をさせてもらいます。その前にちょっと失礼します」


 かをりはカバンの中からマイクロレコーダーを取り出すと、これ見よがしに録音のスイッチを入れる。


「準備OKです。あたしの質問に答えてください。白石先生」


「な、なに勝手に録音なんかしているんだ!? すぐに録音を止めろ!」


「なぜですか? 録音されることで何か問題があるということですか? 病院として隠していることが明るみに出るとか?」


「そんなのあるわけないだろ! あんたの行動が非常識だって言っているんだよ!」


 かをりはベッドに横たわる子供をチラリと見ると、視線を十文字先生の方へ向ける。十文字先生が真剣な表情で頷く。

 その瞬間、かをりの顔から穏やかな表情が消え、険しい表情が取って代わる。


「一般的な取材に対してそんな中傷をされたのは初めてです。院長もそんなことは一言も言っていません。何を訳のわからないことを言っているのですか? 

 わかりました。院長に隠ぺいの件を取材させてもらいます。その結果によっては、デスクに話をして特集記事を組みます。

 今企画しているのは、東都大学附属病院の活動を全面的にPRする好意的な記事ですが、あなたの個人的な判断により、その内容は、巨大病院に巣食う病巣を暴くような、スキャンダラスなものに変わります。それでもよろしいの?」


 かをりは白石を睨みつけながら、毅然とした口調でまくし立てる。

 白石の表情が見る見る間に曇っていく。まるで蛇に睨まれた蛙のような顔つきに変わった。


「待て! 待ってくれ!」


「いいえ、待てません! 一秒たりとも待てません! 患者クランケがこんな状況なんですよ? 深見さんが共同研究している新種のウイルスの症状である可能性が高く有効な治療法もわかっているのに、なぜあなたはそれを拒否するんですか? 最もウイルスに明るい方が早期に治療にあたるのが当然ではないのですか?

 このまま患者が死亡ステルベンに至ったり、後遺症が残るようなことになったらどうをとるつもりですか? 白石先生、あなたはですよね? 対処法がわかっていながら何もしなかったのあなたが被るんです。結果が同じであっても、作為と不作為では天と地ほどの重さが違います。おわかりですか? の白石さん」


 白石の顔から血の気が引いている。冷や汗が滴り落ちる。完全にかをりのペースで話が進んでいる。

 白石は何か言い訳をしようとしているが、言葉は声にならない。まるで、水面で口をパクパクさせている、酸欠状態の金魚のようだ。


 この流れでは、好意的な記事がスキャンダラスなものへと変わる。病院にとっては大きなマイナスとなる。その原因を作った白石の立場が危うくなるのは火を見るよりも明らかだ。

 おびえたような眼差しから、白石が必死に助けを求めているのがわかる。


「白石先生、気分が優れないようですね。よろしければ、僕が本日の緊急担当医を代わりましょうか? 感染症の方は担当外ですが、深見くんがいれば大丈夫ですから。院長には僕が報告しておきますし、もちろん責任はすべて責任者である僕がとりますよ。いかがでしょうか?」


 十文字先生がにこやかに言うと、白石の表情が一変する。


「そ、そうなんですよ! さっきから眩暈めまいと頭痛がひどくてどうしようかと思っていたんです! 十文字先生、助かりました! では、後はよろしくお願いします!」


 言い終わるが早いか、白石は逃げる様に部屋を出て行った。

 私の口から安堵の吐息が漏れる。


「十文字先生、本当にありがとうございました。でも、なぜですか? なぜ私を信じてくれたんですか? 私のような一介の医学生の言うことを」


 十文字先生はいつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「キミが嘘をついているとは思えなかったからです。土下座なんてそう簡単にできるものではありません。患者を救うために土下座をするなんて聞いたことがありません。

 仮にキミの言っていることが嘘だったとしても僕は後悔しません。なぜなら、さっきのキミは『冷静』に『愛情』をもって『非情』に対処したのですからね。

 深見くん、時間がありません。キミの研究成果に基づいた治療を始めてください」



 つづく

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